ホンダ製エンジンを搭載したマシンが次々と勝利をおさめ、日本のモータースポーツは大きな進歩を遂げた。|国内モータースポーツの隆盛 第13回【3】

80年代最後となる89年全日本F3000選手権のチャンピオンはローラ・ホンダを使った小河等。最終戦までもつれロス・チーバーのリタイアでタイトルを決定した。

【2】から続く

速いドライバーとして認知されていた星野一義は、さまざまなレースでタイトルを獲得した。1978年のF2では、ヨーロッパの実力コンストラクター勢を抑えタイトルを獲得する偉業を成し遂げた。

【国内モータースポーツの隆盛 ドライバー最速日本一決定戦 トップフォーミュラF2A&F3000 vol.3】

 F2界に衝撃が走ったのは80年。F1復帰を企てるホンダが、その準備段階としてF2用V6エンジンを開発。ラルトをワークスチームに指定してヨーロッパF2にラルト・ホンダとして参戦を開始したからだ。

 81年、この流れを受けて全日本F2選手権にチームi&i(生沢徹)から中嶋悟がラルトRH6で参戦。第2戦からシャシーをマーチに切り換え、この年のタイトルを獲得。パワーでBMWエンジンを楽々上回り、ホンダが限定供給の態勢を採ったため、中嶋悟とホンダの独走時代が始まった。

 マーチBMWを使う他の日本チームは苦戦を強いられることになるが、さらに追い打ちをかけるよう、この頃から外国人ドライバーのレギュラー参戦が本格化した。81年にラルトホンダでヨーロッパF2チャンピオンを獲得したジェフ・リースが、83年i&iからスピリット/マーチ・ホンダで参戦。4勝を挙げてタイトルを獲得。

 翌84年にはアドバン・チームがステファン・ヨハンソン(ノバ)と契約してホンダエンジンを獲得。後にフェラーリ、マクラーレンでF1を走らせるヨハンソンの走りは鮮烈だった。

 さらに85年、ホンダV6に対抗してヤマハが5バルブV6エンジンを開発、複数のチームに供給。BMWで苦戦を強いられていた星野は、念願のホンダを獲得し、全日本F2はホンダ対ヤマハの一騎討ちに様相を変えていた。

 そして87年、ヨーロッパF2規定の変更に歩調を合わせ、F2に代わる新F3000規定を導入。ターボF1時代を迎え、行き場をなくしたコスワースDFV救済のために設けられた新規定で、エンジン回転上限を9000回転に抑えて使う内容だった。それでも450psを超す実力があり、2L F2を見慣れた目には、スピード、パワーとも次元違いの迫力だった。その前年、中嶋悟はF1準備のためヨーロッパF3000を経験する。87年、マーチ/ローラ・ホンダの星野一義がF3000初代タイトルを獲得。翌88年はマーチ/レイナード・ヤマハの鈴木亜久里、80年代最終年となる89年はローラ・ホンダの小河等と、皮肉にもDFV以外のエンジンが3連覇。

 結果的に日本製エンジンがDFVを圧倒し、こうしたことも要因となって日本のトップフォーミュラは、日本独自の枠組であるべきという思想から、96年にフォーミュラ・ニッポンと名称を変えることになる。

【画像17枚】ホンダ製エンジンを搭載したマシンに乗った星野一義は、F3000初代チャンピオンになることができた。



>>1987年、日本のトップフォーミュラは2LのF2から3LのF3000へと規定変更。大きなボディ、太いサスペンションアーム、力強いエンジン、すべてがたくましくなっていた。写真は88年。先頭を走るのはこの年のチャンピオン鈴木亜久里。



>>88年、主にマーチ・ヤマハで走った鈴木亜久里はこの年のタイトルを足がかりにF1へ転進。日本人2人目のF1レギュラードライバーとなった。



>>80年代最後となる89年全日本F3000選手権のチャンピオンはローラ・ホンダを使った小河等。最終戦までもつれロス・チーバーのリタイアでタイトルを決定した。


【1】【2】から続く

初出:ハチマルヒーロー 2017年3月号 Vol.40
(記事中の内容は掲載当時のものを主とし、一部加筆したものです)

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TEXT & PHOTO : AKIHIKO OUCHI / 大内明彦

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