「日本一速い男」と評された星野一義。その異名通り、あらゆるレースでタイトルを獲得し、レース史に残る活躍をした。|国内モータースポーツの隆盛 第13回【2】

チャンピオンゼッケンの星野は4気筒BMWでホンダV6を猛追した。

【1】から続く

日本でフォーミュラーレースがシリーズ化されたのは1973年。最初は日本国内だけでサーキットも2箇所で行われていた全日本選手権だった。使用されていたマシンも差は殆どなく、ドライバーの技量を争う競技性格が色濃かった。

【国内モータースポーツの隆盛 ドライバー最速日本一決定戦 トップフォーミュラF2A&F3000 vol.2】

 トップフォーミュラの本格的なシリーズ化が73年に始まることは、冒頭でも紹介したとおりだが、このトップフォーミュラの歴史とドライバー自身のキャリアが重なるドライバーがいた。星野一義である。

 星野は69年に日産(大森)と契約。主にサニー、チェリー、240ZでTSスプリント戦、長距離耐久に参戦。73年いっぱいでメーカーがレース活動から撤退すると、星野は74年に富士GC、FJ1300に参戦。トップフォーミュラのF2000はこの年の最終戦にスポット参戦。

 翌75年は、初戦の日本グランプリ(富士)こそ間に合わなかったものの、第2戦鈴鹿からレギュラー参戦。全日本F2000選手権シリーズ全5戦中の4戦に出走し、1位2回、2位1回、3位1回と全レースで表彰台に立ち、この年のチャンピオンを獲得。

 速いドライバーとして認知されていた星野だが、純レーシングカーのキャリアがなく、「ハコ」のドライバーという印象がそれまでは強かった。しかし、大森との契約が解消したことで参戦カテゴリーが自由に選べるようになり、FJ1300を手始めにGC、F2000と一気に活動の場を広げ、どのレースもレギュラー参戦態勢となった2年目の75年、全カテゴリーで勝ち星を挙げ、さらに最高峰のF2000でタイトルを獲得するケタ違いの速さを見せていた。

 一方、トップフォーミュラとしてのF2000シリーズは、星野がタイトルを獲得したシリーズ3年目となる75年頃から全日本選手権としての流れが安定し、以後開催年を重ねるごとに規模の拡大、内容の充実化が進んでいった。ちなみに、翌76年に松本恵二(70年年初レース)、77年に中嶋悟(73年初レース)がトップフォーミュラへのレギュラー参戦を果たしていた。

 78年にシリーズ名称が「F2」に変更されたが、実質的にはF2000と変わることはなかった。エンジン規定の変更によって日本独自のF2000規定を設ける必要性がなくなり、世界基準のF2に合わせた変更だ。

 70年代終盤になると、すでにシリーズ自体も数年のキャリアを積み、マーチシャシー+BMWエンジンの定番パッケージングに挑戦を試みるチーム(コンストラクター)も登場してきた。

 ノバ・エンジニアリングが開発した一連のF2000/F2シャシー(解良喜久雄、宮坂宏設計)だが、並み居るマーチBMW勢を相手に、星野が78年にF2タイトルを獲得。国産シャシーがヨーロッパの実力コンストラクー勢に互した例として、日本のレース史に残る年となった。

【画像17枚】「ハコ」のドライバーだけでだけでなく、FJ1300やF2000と軒並み好成績を叩き出した星野健次。世界に混ざって戦うF2でもタイトルを獲得するなど、日本のレース史み刻む活躍をした。



>>ブルーの「バイゼロ」カラーで走った86年の星野一義。80年代の星野はメインスポンサーがしばしば変わっていた。



>>70年代終盤、国産シャシーのノバ532に乗り「日本一速い男」の名で評された星野一義。星野がトップドライバーの地位に上り詰めた時代がこのあたりだった。



>>80年代の国内トップフォーミュラをけん引したのは中嶋悟と星野一義の2人だった。接近戦を演じるシーンは星野もホンダV6となった85年。


【3】へ続く

初出:ハチマルヒーロー 2017年3月号 Vol.40
(記事中の内容は掲載当時のものを主とし、一部加筆したものです)

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TEXT & PHOTO : AKIHIKO OUCHI / 大内明彦

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