グループA到来【3】グループA対策モデルの開発、追加を急きょ決定した日産。そのモデル、スカイラインGTS‐R|国内モータースポーツの隆盛 第9回

ワークスシエラ、ワークスBMWと同じく1987年インターTECで注目を集めたスカイラインGTS-R。R31スカイラインは日本よりひと足早くETCに投入され、スパ24時間では6位入賞を果たしていた

       
ボルボ240、ジャガーXJS、ローバーヴィテスと、何の変哲もない乗用車に史上最強のメカニズムを持つ日本車はことごとく歯が立たなかった。使用パーツの追加公認システムが成せるワザだったが、1987年、これらの車両がいきなり勝てなくなった。その理由とは?

【 国内モータースポーツの隆盛 第9回 量産車の性能で戦う「ハコ」グループAの到来:奥の手、エボリューションモデルの登場 Vol.3】

【2】から続く

 一方、2年連続(85/1986年インターTEC)でボルボに屈した日本勢、とくに日産に、本格的な反攻姿勢が見られるようになっていた。1986年インターTECでR30の惨敗を目にしたスカイラインの開発グループは、R31にグループA対策モデルの開発、追加を急きょ決定した。

 R31はR30同様グループA対策が考慮されず、いわゆる高性能市販車の域にとどまる許容性能だったためだ。競技車両を想定するなら、本来は新車設計時に盛り込むことが最も効率的かつ有効な方法だったが、あえて非効率なことを承知しつつもR31でグループA対策を実施した状況に、日産の抱く危機感が表れていた。

 また、それが切羽詰まった状況だったことも、開発陣に与えられた猶予期間がわずか半年だったことからもうかがえた。実際「当面の対策しかできなかった」という開発陣だったが、それでも大径タービン/大容量インタークーラーの採用、空力対策を施したグループAベース車両として、その基本性能は大きく引き上げられていた。

 そしてこのモデルがスカイラインGTS‐Rとして1987年8月に登場、11月のインターTECでレースデビューを果たすことになる。

 日産の真剣度は、起用したドライバーが星野一義/アンダース・オロフソンだったことからもうかがえた。当時、F3000/GCと個人競技に専念し、プロドライバーとしてニスモ契約のグループCカーに乗っていた星野にとって、ツーリングカーによる耐久レース(2人1組)は、優先順位の低いカテゴリーだった。


>>【画像14枚】ワークスシエラ、ワークスBMWと同じく1987年インターTECで注目を集めたスカイラインGTS-R。R31スカイラインは日本よりひと足早くETCに投入され、スパ24時間では6位入賞を果たしていた




>> 日産が本腰を入れてグループAに参戦。わずかな時間で開発したGTS-Rは1987年のインターTECでデビュー。本格的なツーリングカーレースは10年以上のブランクがあった星野一義を起用。日産の真剣度が伝わる体制だった。





>> 1988年インターTECでポールポジションを獲得した鈴木亜久里のリコースカイラインGTS-R。ピークパワーはR30よりあったが、逆に中低速トルクが細く、走らせ方にコツがあった。後ろは優勝したトランピオシエラ。



【4】に続く


初出:ハチマルヒーロー 2016年 5月号 vol.35
(記事中の内容は掲載当時のものを主とし、一部加筆したものです)

量産車の性能で戦う「ハコ」グループAの到来2:奥の手、エボリューションモデルの登場(全4記事)

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【1】【2】から続く

text & photo : AKIHIKO OUCHI / 大内明彦

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