黒船の来襲からの再起【1】S30フェアレディZ対S124サバンナによるカテゴリー違いの対決。そんなレースシーンを大きく変えた、1982年に採用されたグループA規定|量産車の性能で戦う「ハコ」の時代グループA|国内モータースポーツの隆盛

JTC発足時、すでにニスモは創設されていたが、日産系主力ドライバーはそれぞれ個別の活動を展開。長谷見昌弘は1985年のインターTECより参戦を開始。写真は1986年のものでスピードは速かったが信頼性に欠ける車両だった

       
1982年、世界のモータースポーツ界は大きな転換点を迎えていた。
車両規定が大きく変わり、ツーリングカーレースは量産車の基本性能で戦うグループA規定が適用された。
折しも、日本は排ガス対策明けでハイメカ、性能自慢の量産車が覇を競う形で割拠していたが……。

【 黒船の来襲、そして砕かれた自信からの再起  Vol.1】

 ル・マン24時間を頂点とするグループCカーレースが本格化する中、それまでしばらく絶えていたツーリングカーレースが1985年に復活した。グループA規定による全日本ツーリングカー選手権(JTC)の発足だ。

 日本のツーリングカーレースは、日産が1972年いっぱいでスカイラインGT-Rによる活動を休止すると同時に下降線をたどり、わずかに富士GCシリーズのサポートイベントとして企画されたST(スーパーツーリング)とMT(マイナーツーリング)が続けられる状態だった。

 しかし、両レースの実態は、STがS30フェアレディZ対S124サバンナによるカテゴリー違いの対決だったり、MTはすでに生産の完了したB110サニーが中心勢力だったりと、役者不足の状況が続いていた。


>>【画像14枚】TWR(トム・ウォーキンショー・レーシング)の手によりグループAの強豪車両となった、重量級のジャガーXJ-Sなど。日産は2クラスにシルビアを投入。と言ってもワークス体制ではなくニスモとプライベーターによるジョイントプロジェクトとして展開。上限2.5Lのクラスに2L車の投入という車種構成の手薄さが惜しまれる参戦だった




>> どう見ても単なる「セダン」、実用車にしか見えないボルボ240Tだったが、いざ走らせてみればメカ自慢、性能自慢の日本製ツーリングカーを足元にも寄せ付けない強さで1985年と1986年のインターTECを制覇。その四角いフォルムから「空飛ぶレンガ」と呼ばれた。




>> これまたサーキットレースとは無縁のように思えたホールデン・コモドアもグループA規定をうまく活用して有力なグループAカーに変身。ホールデンはGMのオーストラリアブランド。歴史的にツーリングカーレースの盛んな国だ。


【2】に続く

初出:ハチマルヒーロー 2016年 3月号 vol.34
(記事中の内容は掲載当時のものを主とし、一部加筆したものです)

量産車の性能で戦う「ハコ」の時代グループA【1】|黒船の来襲、そして砕かれた自信からの再起 (全4記事)

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text & photo : AKIHIKO OUCHI/大内明彦

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