〈4〉公道をテストコース並みに使いテスト。名神高速を何度も往復|トヨタ2000GT開発者座談会 Vol.4|ワークスドライバーより速かったメカニック

60年暮れに完成したヤマハ初のライトウエイトスポーツのYX30。エンジンは水冷直列4気筒DOHC1588cc、最高出力88㎰/5600rpm。

──前回はトヨタ2000GTにまつわる開発秘話をお届けしたが、PART2ではヤマハの4輪車開発の歴史(軽自動者、YX30、A550X)や、トヨタ2000GTのレース舞台裏の話を披露してもらうことにした。なお、新たにトヨタのレース部門でメカニックの班長だった平博とヤマハの実験部隊にいた渡瀬治朗に加わってもらい、その2人を中心に話が進んだ。その結果、新事実が次々と浮かび上がってきた。

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──Vol.4からはトヨタのレースメカニックの班長だった平博さん(以下平)とヤマハの実験部隊だった渡瀬治朗さん(以下渡瀬)に加わっていただきました。まず平さんからプロフィールを教えてください。

平 「1930年9月12日、広島生まれです。私は45年1月に鹿児島県大隅半島の基地の予科練(海軍飛行予科練習生)に行きました。トヨタでは乗用車開発の仕事を担当しました。」

──平さんは「第1回日本グランプリ」にどんな形で参加しましたか。

平 「「第1回日本グランプリ」でインストラクターの池田英三さんがサーキット講習会を行いました。講義の後、実際に彼の後ろをずっと走ってライン取りを覚えるのですが「あまりにも遅いので途中で抜いてしまおう」と思って、抜いてしまった。運行試験で鍛えられていましたから速く走れたのです。「第1回日本グランプリ」でエンジンの供給を担当。「第2回日本グランプリ」でワークスドライバーの式場壮吉さんの助っ人をやりました。大切なポルシェ904GTSを誰かに壊されないよう、ピット周りに陣取って監視しました(注・トヨタがスカイラインGTに勝つためにポルシェ904GTSを緊急輸入したと、うわさされた)。」

──平さんはヤマハからトヨタ2000GTを受け取って走らせる立場ですが、メカニックをまとめながら自分も1台担当したのですか。

平 「そうです。二郎さんから指示されたことを、自分なりに考えてやりました。言われたこととの全く逆のこともあった。例えば、燃料ホースを配置するとき、私は「風の当たる所を引っ張るのがいい」と言いましたが、河野さんは「もっとも効率よく流れるように最短距離で引っ張れ」と。結局、私が提案したことをやらせてくれました。」

──トヨタ2000GTで公道テストはやりましたか。

平 「公道をテストコース並みに使いました。名神高速も何度も往復しました。トヨタ2000GTのテスト車はクーラーがなかったので暑かったですね。1人で1日に200km、1カ月に5000kmも砂利道を走りました。山頂付近でヤマハのテストチームと危うく衝突しそうになったこともありました。」

松田 「山岳地運行試験では乗鞍岳(標高3025m)、富士山スバルライン5合目(標高2000m)、日光いろは坂などでオーバーヒートやブレーキのテストをしました。トヨタ2000GTの3台と比較テストのためジャガーEタイプを1台持って行きました。」

──平さんはワークスドライバーより速かったそうですね。

平 「新しいドライバーが入ってきたら「新人には負けない」という気持が最初はありましたよ。実際に私を「レーサーにしよう」という話はありました。労働組合からストップがかかり「生命の保証がないからキャンセルされた」と後で話を聞きました。」

田中 「私たちドライバーは慣れてくるとメカニック(実験担当)の人より速く走れましたよ。(笑)」

平 「テストで急旋回して転倒させることはずいぶんしました。自分でひっくり返る命がけの試験はよくありました。」

──河野さんからドライバー評価のために意見は求められましたか。

平 「ドライバーの契約更改時には、私も意見を言いました。細谷さんは普段あまり目立たないのですが、契約更改の時は速かった。」

田中 「そんなときはいつもトップタイムをマークしました。普段のレースで手抜きしているという意味ではないですよ。チームのためにここでは絶対譲れない、という時は速かった。」

──平さんはP・ブロックが造ったトヨタJP6に乗ったのですか。

平 「はい、トヨタJP6に乗りました。その頃、トヨタ7、トヨタ7改、トヨタJP6の3車を比較して乗りました。」

田中 「私も3車に乗っています。福沢幸雄さんは精力的にトヨタ7改を操っていました。」

平 「福沢さんの実家に行き、父親の進太郎さん、母親のアクリヴィーさん、妹のエミさんにもお会いしました。」

──渡瀬さんの生まれはどこですか。

渡瀬 「私は39年3月15日、静岡県浜松生まれです。静岡県立浜松工業高校を卒業し、日本楽器製造に入りました。すぐ先行開発をやっていたヤマハ技術研究所に配属されました。私はバイクを走らせる手伝いをしましたが、それと並行して4輪車を開発していた安川研究室の仕事もやりました。」


平博 (たいら・ひろし)
1930年9月12日広島市生まれ。父親と同じ自動車実験課所属。レース部隊で班長を務め、グランプリなどでメカニックをまとめながら、自分も1台を担当。メカニックとテストドライバーをこなした。


渡瀬治朗 (わたせ・じろう)
1939年3月15日生まれ。静岡県浜松工業高校を卒業し、日本楽器製造に入社後、ヤマハ技術研究所に配属される。250ccのレースエンジンのチューニングもこなしたが、それと並行して安川研究室の仕事を担当。その後、田中俊二率いるトヨタ2000GTの開発部門に異動。トヨタ7(3L)のエンジンの実験も担当した。

続く

掲載:ノスタルジックヒーロー 2012年6月号 Vol.151(記事中の内容はすべて掲載当時のものです)

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text & photo:Kouhju Tsuji/辻 好樹

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