MAZDA757/767【2】「まずは自分たちでできることから」堅実な姿勢が、後のル・マン制覇につながって行くのだ

グループC規定が適用された初年度のル・マンにマツダスピードはRX-7ベースの第2世代モデル、252で臨んでいた。当該カテゴリーはGTクラス。試行錯誤を繰り返しながら次のステップを模索していた。

日本の自動車メーカーにとって「ル・マン」は大きなあこがれ、目標だった。まだ、世界の頂点すら見えない時代から、いつかはル・マンの思いを抱き続けてきた。そしてその思いを諦めることなく、自分たちの力で出来る範囲で追い続けてきたのがマツダスピードとマツダだった。1973年に始まるル・マンへの挑戦、その転換点はマルチローター化だった。

【MAZDA757/767 Vol.2】

シグマが、トヨタからのエンジン供給を受けられなかったという事情も介在したが、マツダオート東京がこの話に乗ったことで、ロータリーエンジンのル・マン参戦が実現したものだった。

もっとも、時代をさかのぼれば、70年にベルギーのチームがシェブロンB16に10A型を載せてル・マンに参戦した事実もあったが、これはあくまでマツダが関与しないかたちでの出走だった。(とは言うものの、マツダは立会人として本社エンジニアを現地に派遣していた)

ロータリーによるル・マン参戦は、74年シグマのMC74以降いったん途絶えるかたちとなったが、国内活動、さらにはIMSAへの進出を経て、79年に新型サバンナ(RX-7=SA22C)のグループ5仕様でル・マンに復帰。活動母体は、マツダオート東京のモータースポーツ部門が発展した新組織、マツダスピードが受け持った。

日産、トヨタといったメーカーのレース部門や技術部門が直接かかわるケースなら、いきなり総合優勝を争うオーバーオールクラス(当時はグループ6プロト)への参戦となるのだろうが、マツダの場合は有力ディーラーのモータースポーツ部門によるプロジェクトであっただけに、メーカー単位での参戦から見れば小さなスケールだった。

まずは自分たちでできることから、という始まりだったが、結果的にこうした堅実な姿勢が787Bによる91年のル・マン制覇にまでつながっていくのだから、組織とは分からないものである。
【画像14枚】日本の自動車メーカーの夢でもあった「ル・マン」挑戦の転換点となったマツダ


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【3】へ続く

初出:ハチマルヒーロー vol.044 2017年11月号
(記事中の内容は掲載当時のものを主とし、一部加筆したものです)

MAZDA757/767(全5記事)

TEXT : AKIHIKO OUCHI/大内明彦 COOPERATION : Fuji International Speedway Co.,Ltd. / 富士スピードウェイ

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