MAZDA757/767【1】日本の自動車メーカーの大きな夢であったル・マン参戦を実現させたマツダ

1988年の富士500mileでフォーメーション走行を見せる767。4ローターエンジンを積みターボCカー勢と遜色ない走りが可能な動力性能を得ることに成功。背後に見えるのは日本車初のカーボンモノコックCカーSARD-MC88S。

       
日本の自動車メーカーにとって「ル・マン」は大きなあこがれ、目標だった。まだ、世界の頂点すら見えない時代から、いつかはル・マンの思いを抱き続けてきた。そしてその思いを諦めることなく、自分たちの力で出来る範囲で追い続けてきたのがマツダスピードとマツダだった。1973年に始まるル・マンへの挑戦、その転換点はマルチローター化だった。

【MAZDA757/767 Vol.1】

日本メーカーがル・マンを意識し始めたのは1960年代、日本のモーターレーシングがまだ成長期にある時代のことだった。60年代終盤には、日産R380(GR8型エンジン)が連続24時間のフルスロットル運転を試み、日産R381や5Lトヨタ7の初期モデルがグループ4/6を視野に入れたクーペモデルで企画された事実を振り返れば、ル・マンに対するあこがれや思い入れの強さが伝わってくる。

しかし、ル・マン参戦への夢を実現させたのは、トップランナーの日産でもなくトヨタでもないマツダだった。

73年、トヨタ第7技術部に籍を置いた加藤真の創設によるレーシングコンストラクター、シグマオートモーティブ(現SARD)製作のシグマMC73に12A型ロータリーエンジンを組み合わせるカタチでの参戦だった。

シグマが、トヨタからのエンジン供給を受けられなかったという事情も介在したが、マツダオート東京がこの話に乗ったことで、ロータリーエンジンのル・マン参戦が実現したものだった。
【画像14枚】日本の自動車メーカーの夢でもあった「ル・マン」挑戦の転換点となったマツダ


>>1987年のWEC富士1000㎞でフォーメーションを組みながら走る2台のマツダ757。ル・マン明けで問題をつぶしながら戦闘力を高めている時期だった。マツダが本格的に世界の頂点を目指し始めた第1歩と言ってもよかった。

すべての画像を見る

【2】へ続く

初出:ハチマルヒーロー vol.044 2017年11月号
(記事中の内容は掲載当時のものを主とし、一部加筆したものです)

MAZDA757/767(全5記事)

TEXT : AKIHIKO OUCHI/大内明彦 COOPERATION : Fuji International Speedway Co.,Ltd. / 富士スピードウェイ

RECOMMENDED

RELATED

RANKING