ほとんど差のないエンジンで競うドライバーの技量を争うレースが国内で行われていた。|国内モータースポーツの隆盛 第13回【1】

1983 JAPAN F2 CHAMPIONSHIP RACE

       
【国内モータースポーツの隆盛 ドライバー最速日本一決定戦 トップフォーミュラF2A&F3000 vol.1】

 日本でフォーミュラレースが本格的にシリーズ化されたのは1973年。当時のF1A-F2規定に準じた日本独自のF2000規定を設け、年に4~5戦規模のシリーズ戦として始められた。といっても、現在のように日本全国のサーキットを転戦するスタイルではなく、鈴鹿と富士ふたつのサーキットで行う全日本選手権だった。

 フォーミュラカーは、量産車ベースのツーリングカーやGTカー、グループ4/6のスポーツプロトなどと異なり、はっきりとした「形」の違いがあるわけではなく、クルマ好きよりレース好きに支持される傾向が強い、と言われてきた。

 モータースポーツの認識が浅い時代には、だれが見ても分かる量産車系やスポーツプロトのレースに人気が集まるのは当然で、フォーミュラレースに目が向きだすのは、ある程度レースを見慣れてきた段階のことになる。言い換えれば、レース本来のおもしろさを理解できるようになったファン層から支持され始める、ということである。

 当時のフォーミュラは、単座のアルミモノコックに2Lエンジンを積むシンプルな構造で、各車の性能に大きな差があるわけではなく、ドライバーの技量を争う競技性格が色濃かった。いわば最速ドライバー決定戦である。

 これは、エントラント側から見ても同じことが言え、性能差がない車両条件でトップを走れば、文句なくそのドライバーがいちばん速かったと言えるだけに、レーシングドライバーを稼業とするプロにとっては、どうしても手に入れたいタイトルだった。

 ところで日本のモーターレーシングは、70年代末に排ガス対策が決着したことで、自動車メーカーが積極的に活動できるようになったことは、グループCカーやグループAカーの掲載回で何度か触れたとおり。プライベーターが主体となるトップフォーミュラのF2000(73〜77年)やF2(78〜86年)は、直接こうした時代変化の影響を受けることはなかったが、排ガス対策=社会問題の制約が解かれ、モーターレーシングが社会的に復権する流れなかで、スポンサー獲得なども含めたレース活動に、はずみがつき始めていた時期だった。

【画像17枚】まだ日本がモータースポーツで世界と戦う前、日本人選手の中でトップを決める全日本選手権が開催されていた。このときの観衆が見に来た目的は、レースを見るというよりクルマを見に来たのだった。



>>70年代中盤まで日本のトップフォーミュラはF2規定に準じたF2000規定で開催されていた。写真は長谷見昌弘のKEマーチBMW。時代のトレンド「スポーツカーノーズ」が特徴的だ。



>>タイヤメーカーがチームを編成。世界的にも類を見ない例を横浜ゴム「アドバン」が実践。編隊を組んで走るのは左からケネス・アチソン、高橋健次
ロベルト・モレノ。


【2】へ続く

初出:ハチマルヒーロー 2017年3月号 Vol.40
(記事中の内容は掲載当時のものを主とし、一部加筆したものです)

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TEXT & PHOTO : AKIHIKO OUCHI / 大内明彦

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