自社の技術力と求められる技術力の差を埋め、優勝を目指した日産の軌跡|2019 ル・マン24時間レース【3】

GT1規定となったル・マンに日産が送り出した車両は手直ししたVRH35型を搭載するR390。

【2】から続く

トヨタがル・マンへ初参戦したのが1989年。そのトヨタが初優勝したのが2018年と最近のことであった。今回の記事は日産がル・マンに挑戦した軌跡を振り返る。

【トヨタ、ル・マンを2連覇!日本車挑戦の50年を振り返る vol.3】

日産がル・マン参戦に対して直接的な行動を起こしたのは1960年代終盤。最強の2Lプロトを目指してR380なよる挑戦を試みたが、排出ガス対策のため1970年代に入ると同時に計画は中止。排ガス問題を完了し、自動車メーカーとして表立ったレース活動を再開したのは1980年代になってからだった。日産は、ターボエンジンを使うスーパーシルエットを足掛かりに、1983年から始まるグループCカーレースに本格的な取り組み姿勢を見せた。

 1984年にレース専門会社のニスモを設立すると、1985年にVG30型ターボエンジンを導入。このエンジンとマーチ社のシャシーを組み合わせ、1986年に念願のル・マン初参戦を果たしたが、勝つためには自社の技術総力を傾注しなければならないと判断。

 エンジンの自社開発を始めたが、VEJ30型の失敗を経てVRH35型の準備が整ったのは1989年だった。ローラ社に開発を依頼した専用シャシーと組み合わせR89Cを作り上げた。

 翌1990年、R89Cから1年をかけて熟成を進めたR90C5台で臨んだ1990年のル・マンは、NME24号車がポールポジションを獲得。決勝レースはNME、NPTIの各2台が後退する流れだったが、日本チームの㉓号車が健闘して総合5位で完走。

 グループCカー規定消滅後は、GT-Rで参戦活動をつなぎ、1997年にR390でル・マンに本格復帰。2年目となる1998年、出走全4車がトップ10でフィニッシュ。星野、鈴木、影山の23号車が3位となり表彰台に立った。

【画像35枚】熟成作業が足りずリタイアするレースが多かったが、着実に完成度をあげ1989年には初の表彰台に立つことができた



>>R380以来の夢だった日産のル・マン参戦が実現したのは1986年。VG30ターボエンジンを得てマーチ86G(手前、R86V)とマーチ85G(奥、R85V)で
臨み、ひたすたペースを抑えた走りで㉜号車R85Vが16位で満身創痍の完走。



>>自社開発の新型ターボエンジンVRH35を搭載したR89Cを3台準備。ポテンシャルは大幅に引き上げられたが、熟成作業が十分でなく、結局3台ともリタイアを喫することに。しかし、今後の可能性に十分以上の手応え残すレースだった。



>>日本、NME(ヨーロッパ)NPTI(USA)の3チーム、5台による参戦体制となった1990年のル・マン。結果的には、24時間レースに対する体制の一元化や車両の熟成度は不十分だったが、NME24号車がポールポジションを獲得。スピートはトップレベルに到達した。


【4】へ続く

初出:ノスタルジックヒーロー 2019年10月号 Vol.195

(記事中の内容は掲載当時のものを主とし、一部加筆したものです)

2019年 ル・マン24時間レース(全4記事)

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