5連覇それ以前。グループCカー時代の到来 5:ル・マンを目指して奮闘、80-90年代、トヨタの成功そして挫折 Vol.1

2016年のル・マンではトヨタのTS050ハイブリッドが走った

       
1980年代の日本のモータースポーツは世界の扉を開けた時代だった。F1、WRC、
そしてスポーツカーレースの最高峰ル・マン24時間への挑戦。とくにメーカー技術力に栄誉がかけられた
ル・マンは日本勢にとっての悲願だった。勇躍参戦、そして栄光と敗戦。悲喜こもごもの物語があった。

【国内モータースポーツの隆盛 第11回 グループCカー時代の到来 5:ル・マンを目指して奮闘、成功そして挫折 Vol.1】

 1980年代のグループC時代には、マツダ、日産も積極的に参画していたが、最新HV技術の競い合いとなっている現状を考えれば、スポーツカーレースについては、HVのトップランナー、2016年当時、トヨタのみが参加しているというのもやむを得ない状況だったかもしれない。

 さて、そのトヨタ、ル・マンへの初参戦は1985年で、正確にはトムスと童夢によるプライベート態勢だった。このときトヨタは、4T-G型ターボエンジンを供給するのみで、本格的な参戦は3.2LV型8気筒ターボエンジンを積む1989年の89C-Vからとなる。

 以後、途中4年から10年強の休止期間をはさみながら2016年の今日にいたっているが、1985年の参戦以来2位5回という、優秀なのか今ひとつ足らないのか、判断に迷う微妙な結果を残してきた。
 言うまでもなく、圧倒的に印象に残るレースは、ゴールまであと3分というところで突然止まり、勝ちを逃した今年のル・マン以外にはない。1993年間のル・マン史上に残る劇的な「負けレース」で、このレースに勝つには「運」も必要なことを改めて思い知らされる意味深い展開だった。

 トヨタにとって最初の2位は、NA3.5L規定のTS010を持ち込んだ1992年のル・マンだった。プジョー905と激闘の末2位に敗れるレースで、レインタイヤの良否が勝負の明暗を分けた。このレースは、トヨタの日本人エース小河等選手が直前のF3000鈴鹿戦で事故死し、関谷正徳選手が小河選手の遺影を掲げて臨んだ表彰台の光景が印象的だった。

>>【画像16枚】1992年のル・マンでトヨタは最初の二位を獲得。小河選手の遺影とともに登った関谷正徳選手が印象的だった表彰台など



トヨタにとって最初のル・マン2位は1992年のTS020だった。NA3.5LCカー規定下で3台を準備してプジョーとの一騎打ちとなった。レース後半で追い上げたが届かず。

【2】に続く

初出:ハチマルヒーロー 2016年 7月号 vol.36
(記事中の内容は掲載当時のものを主とし、一部加筆したものです)

グループCカー時代の到来 5:ル・マンを目指して奮闘、成功そして挫折(全3記事)

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text & photo : AKIHIKO OUCHI / 大内明彦

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