大成功のスーパーシルエットレースから、時代はグループCへ【1】グループCカー時代の到来、2L直列4気筒ターボで臨んだ初期の日産

スーパーシルエットの時代からシルビアの車名を使っていた星野一義は、グループC時代を迎えてもそのままシルビアの車名を使用。星野はシャシーコンストラクターとして定評のあったマーチ社の83Gを選択。3車中では最も戦闘力の高い組み合わせと思われた

       
とにかく何かをしなくては、と1979年に始まったスーパーシルエットレースは、
立ち上げてみたら予想以上の人気で大成功。しかし、世界の動向はすでにグループCカーの時代へ突入。
要求性能のレベルが高く、自動車メーカーが本腰を入れて臨む条件が揃っていた。

【国内モータースポーツの隆盛 第5回 グループCカー時代の到来、2L直列4気筒ターボで臨んだ初期の日産 Vol.1】

実現不能、世界一厳しいと言われた昭和53年排ガス規制を乗り切った日本の自動車メーカーが、モータースポーツ活動を再開するにあたっては、もはや社会的な障壁はなかった。だが、参戦に見合うだけのカテゴリーが当時の日本には存在しなかった。

 しかし、これは当たり前の話で、排ガス対策を理由にメーカーに撤退されたレース界としては、メーカーに依存せずプライベーターだけで成立する産業構造に転換することが、生き延びるための唯一の方法だったからだ。

 具体的には、市販シャシーと市販エンジンによって競技車両を確保し、活動資金はスポンサーを得てまかなうというスタイルである。このパターンで発展したのが富士GCシリーズやF2000/F2シリーズで、シャシーはマーチ、ローラ、シェブロン、エンジンはBMW、コスワースといったあたりが主力となっていた。

 こうした意味では、1979年に始まるスーパーシルエット・レースは、もともとがスポーツカー世界選手権を意図したFIAグループ5に準じるカテゴリーだっただけに、メーカーの参加を促すには好都合とも思えたが、すでに世界的には行き詰まりを見せ、日本メーカーに腰を上げさせるまでには至っていなかった。





>> セントラル20を率いてフェアレディZのチューニングで名を上げていた柳田春人は国産のLM03CシャシーにLZ20B型エンジンを組み合わせ、フェアレディZターボCのネーミングで参戦。ボディカラーの赤はメインスポンサーとなったコカコーラカラーだ。



 それだけに、1982年にFIAの車両規定が一新されたのは、日本メーカーにとって絶好のタイミングとなっていた。ツーリングカーは量産車の性能基準がそのまま競技性能に反映されるグループA規定、スポーツカーはターボによる高出力化を前提としながら燃費の縛りを設けた効率追求型のグループC規定と、時代のニーズに沿う新規定として、自動車メーカーの技術力が直接的に問われる性格となっていた。

 こうしたモータースポーツ環境の変化に合わせ、いち早く動きを見せたのが日産だった。日産は、宣伝部が軸となり、スーパーシルエット・レースの開始と同時に、追浜が開発したターボエンジンを順次3チームに供給する体制を見せ、このレースの主役として活動する実績を残していた。


>> 【画像13枚】グループCカー時代の到来、2L直列4気筒ターボで臨んだ初期の日産など




【2】に続く

初出:ハチマルヒーロー 2015年 09月号 vol.31
(記事中の内容は掲載当時のものを主とし、一部加筆したものです)

グループCカー時代の到来、2L直列4気筒ターボで臨んだ初期の日産(全4記事)

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text & photo : AKIHIKO OUCHI / 大内明彦

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