スカイラインの名のついたグループCカー|日産自動車のレース会社として日産モータースポーツインターナショナルが設立された時代【4】グループCカー時代の到来、2L直列4気筒ターボで臨んだ初期の日産

1970年代初頭のスカイラインGT-Rに始まり、スーパーシルエット、そしてグループCカーと長谷見昌弘のスカイラインイメージは強い。その後もR32、R33GT-Rと歴代モデルで活躍することになる

       
とにかく何かをしなくては、と1979年に始まったスーパーシルエットレースは、
立ち上げてみたら予想以上の人気で大成功。しかし、世界の動向はすでにグループCカーの時代へ突入。
要求性能のレベルが高く、自動車メーカーが本腰を入れて臨む条件が揃っていた。

【国内モータースポーツの隆盛 第5回 グループCカー時代の到来、2L直列4気筒ターボで臨んだ初期の日産 Vol.4】

【3】から続く

 一方、前年はFRのグループCカーという珍しい車両で走ったハセミモータースポーツも、第4戦、富士100 0kmからLM04Cシャシーを使う車両に変更。質、量ともレベルを上げる形となった日産勢だが、このシーズンも安定した戦績を残すことはできず、2L直列4気筒ターボ、LZ20B型の性能限界も明らかになっていた。

 このLZ20B型に関しては、パワー至上主義でシルエットに臨んできた日産にとって、グループCカー活動を開始したことで、ちょっとしたカルチャーショックが起きていた。

 スーパーシルエットの時代には、ピークパワーの絶対値を求めてギャレット製T05型という大径タービンを使っていたが、グループ5カーより車重の軽いグループCカーでは、過渡特性の改善を図るため、ひと回り小ぶりなT04型タービンを試してみたところ、ラップタイムの向上、ドライバビリティの良化と、あらゆる面でプラスの効果が得られ、当時の担当者は、目からウロコの思いがしたという。

 この1984年は、体制面で大きな変化が生じた年だった。9月に日産自動車のレース会社として日産モータースポーツインターナショナル(ニスモ=NISMO)が設立された。

 これまで日産のモータースポーツ活動を受け持っていた宣伝3課を母体に法人化された組織で、モータースポーツ活動に関する動きを独自の判断で行えるようになった。初代社長は実験部特殊車両課出身の難波靖治。日産の名を一躍高めることになった58年の豪州1周ラリー、クラス優勝ドライバー(ダットサン210、富士号)として活躍。日産のモータースポーツ活動草創期からかかわってきた人物で、まさに適材適所といえる人事だった。

 ニスモ創設の背景には、翌1985年から始まるグループA規定によるツーリングカーレースの存在も当然ながらあったが、ユーザー向けスポーツパーツの開発・販売など、再成長過程にあった日本のモータースポーツに対し、メーカーとして積極的に関与していこうという姿勢の表れでもあった。

 そしてニスモとして迎える初のフルシーズン、1985年は、1984年までとは異なる体制で3つの全日本選手権に参戦し、見るべき成果を残すことになる。


>> 【画像13枚】グループC2年目となる1984年になると4台目の日産ターボCカーが登場。ホイールのパナスポーツをスポンサーに付けたパナスポーツターボCで、ドライバーの組み合わせは当時の若手、鈴木利男/中子修組。振り返ればぜいたくなコンビだった



>> 1970年代初頭のスカイラインGT-Rに始まり、スーパーシルエット、そしてグループCカーと長谷見昌弘のスカイラインイメージは強い。その後もR32、R33GT-Rと歴代モデルで活躍することになる




初出:ハチマルヒーロー 2015年 09月号 vol.31
(記事中の内容は掲載当時のものを主とし、一部加筆したものです)

グループCカー時代の到来、2L直列4気筒ターボで臨んだ初期の日産(全4記事)

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【1】【2】【3】から続く

text & photo : AKIHIKO OUCHI / 大内明彦

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