いざフタを開けてみたらポルシェがあまりにも強すぎた。マシン性能が不十分であり態勢も整っていない。
JSPCに臨んだ日産はすべてを見直さなければならない状況に追い込まれていた。
NISMOの設立、VG30型ターボエンジンの導入と歩を進めてみたのだが……。
【 NISMOの設立、VG30を導入した中期の日産 Vol.1】
排ガス対策が終了した1970年代終盤頃から、メーカーをからめたモータースポーツ活動が復活の気配を見せてきたことは、これまでも何回か触れてきたとおり。日産は、宣伝部直轄の大森分室がコーディネイター役となり、追浜(特殊車両課)と日産系ユーザーを結びつけ、ターボ技術を活用したシルエットフォーミュラの活動を展開。
1983年にグループCカーレース(JSPC、全日本スポーツプロトタイプカー選手権)が始まると、スーパーシルエットで使われたターボ技術とエンジン(LZ20型ターボ)は、グループCカー用のパワーユニットとしてそのままスライド。星野一義(インパル)、長谷見昌弘(ハセミモータースポーツ)、柳田春人(セントラル20)がこのエンジンを使い、プライベーターとして参戦活動を始めていた。
しかし、JSPCの開始と同時にトラストが投入した市販レーシングカーのポルシェ956が、格違いの戦闘力を発揮。メーカーの息がかかった日産、トヨタのCカー勢は手も足も出ない状態。スピードで及ばず、耐久力でかなわず、チェッカー時は常に大差。それでも、大差でゴールできればまだよいほうで、完走すらおぼつかないことがしばしばあった。
どうすればまともに戦えるようになるのか? まず、態勢の見直しから始まった。開発、運営、エントラントがそれぞれ個別というのはなんとも効率が悪く、内容の充実度も上がらない。ならば一元化した組織を作ればよいという話になり、モータースポーツ専業企業のニッサン・モータースポーツ・インターナショナル、すなわちNISMO(ニスモ)が立ち上げられた。
>>【画像14枚】1985年のWECにVG30型ターボで臨んだ日産勢。サインガードでチームの作業を見守るドライバー陣。右から萩原光、星野一義、1人おいて松本恵二。背中を向けているのはホシノレーシングのマネージャー金子豊> NISMOの設立、VG30を導入した中期の日産
> ピットイン時に不調を訴える長谷見昌弘。コンビを組む和田孝夫に状況を伝えている。トラブルはエンジン関連なのだろうか、リアカウルが外されようとしている。長谷見車はこの年からマーチ85G+VG30型ターボの組み合わせに変わった。191985年富士500マイルより。
> 星野は1983年のJSPC参戦時よりマーチシャシーを使用。1983年には83G、1984年には84Gを導入。そしてVG30型投入となった1985年は85Gを入手。スポンサーのニチラ(日本ラジエター)はカルソニックから、カルソニックカンセイとなり、マレリに。
【2】に続く初出:ハチマルヒーロー 2016年 1月号 vol.33
国内モータースポーツの隆盛〈第7回〉|グループCカー時代の到来 その3
(記事中の内容は掲載当時のものを主とし、一部加筆したものです)
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