【2】から続くポルシェ956はデビュー戦は優勝できなかったものの、その後の賞レース(ル・マン、WECなど)は勝利を積み重ねていた。これに対抗すべく日本はJSPC(全日本スポーツプロトタイプカー選手権)を立ち上げ、これに呼応した日産勢とプライベーターもそれぞれ対策し始めた。
【国内モータースポーツの隆盛 第16回 vol.3】
全ての画像を見る 956を目標にしたCカー活動 背中も見えない遠い存在だった
一方、メーカー色のからまないプライベーター勢は、彼らが手に出来る最強のアイテム「ポルシェ956」の導入に踏み切っていた。まっ先に手を挙げたのはトラスト。83年の開幕戦から藤田直廣/バーン・シュパンのコンビで参戦。JAPC全5戦で国産Cカー勢を一蹴。スピード、耐久性、信頼性とあらゆる面でひと回りもふた回りも国産勢を上回っていた。
実際のところ、当時の国産Cカー勢を客観的に振り返ると、車両のベースポテンシャルがポルシェ956に遠く及ばないどころか、熟成度、完成度も低く、完走もおぼつかない状態で到底ライバル視出来る関係ではなかった。
トラスト956が、別の意味で注目を集めたのは、同年の富士WECだった。国内勢として圧倒的な存在であることは誰もが認めるところで、むしろ、WECに遠征してくる有力プライベートポルシェ勢、さらにはワークスポルシェとの力関係がどの程度なのか、この1点に関心は集まっていた。
果たして、遠征組のプライベートポルシェに相次いでマイナートラブルが発生したことも手伝っていたが、トラストはワークス2台に次ぐ3位表彰台を獲得。地元日本、富士という有利な面もあったが、少なくともサポート体制を含めた総合戦闘力で、トラストは名だたるポルシェカスタマーに先着する実力を示したわけである。
しかし、見方を変えるとこの3位入賞は、手放しで喜べるものでもなかった。1周4.3kmの富士を225周、967.5kmで争われたこのレースを制したロスマンズ2号車とは実に6周の大差がついていた。
国内最強、それも圧倒的な強さのトラストをもってして6周差。そのトラストにまったく歯の立たない国産勢の実状を振り返ると、日本勢が世界の頂点に追いつくのはいったいいつの日になるのか、絶望的な距離感を思い知らされるレースでもあった。
日本勢にとって、82年の富士WECはグループCカーを目の当たりにした初の機会、そして83年のWECは曲がりなりにも態勢を整え、世界の頂点と初めて手合わせしたレースとして、自分たちの置かれた位置を自覚する、言い換えればグループC活動のスタートラインに立つレースとして、大きな意味があった。
それにしても、またもや日本のモーターレーシング界に大きなインパクトを与えたポルシェと956は、まさに師と呼ぶべき存在と見えてくる。
【画像20枚】1983年の富士WECでピットサービスを受けるロスマンズポルシェ2号車。車両後方でヘッドセットを着け作業を見守るノルベルト・ジンガーの姿も見える。この年はワークスの1〜2フィニッシュだった>>ワークスポルシェのドライバーとしてイクスが可愛がったステファン・ベロフ。イクス同様若き天才と呼ばれていたが、皮肉にも1985年のWECスパ戦でイクス車と接触事故を起こし、一命を落としてしまう。これがきっかけでイクスは現役を退くこととなった。
>>頼りになるイクスの相棒ヨッヘン・マス。若き日にはフォード系ドライバーとしてBMWのハンス・シュトゥックとやり合ったが、そのシュトゥックも後年ワークスポルシェのエーズドライバーとしてル・マンやWECで活躍。マスはその後、メルセデスに移籍している。
【4】へ続く国内モータースポーツの隆盛 第16回(全5記事)初出:ハチマルヒーロー 2017年9月号 Vol.43
(記事中の内容は掲載当時のものを主とし、一部加筆したものです)
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