1970年代から80年代にかけ、トップカテゴリーのレースとして日本のモーターレーシングをけん引してきたのは鈴鹿/富士でのF2シリーズと富士GCシリーズだった。
言うまでもなく、排ガス対策のため70年代初頭に自動車メーカーが撤退したことで、否が応でもプライベーターが日本のレースを背負わざるを得ない状況から、メーカーの力を借りなくても成立するカテゴリー、すなわち市販エンジンと市販シャシーで成立するカテゴリーにスポットライトが当たった結果のである。
しかし、振り返ってみればメーカーの撤退はあながち悪いことばかりでもなく、背に腹は代えられないという事情は介在したものの、メンテナンスガレージやチューナーの発展を促し、日本にレーシング産業を根付かせる大きな力として働いたことは間違いない。
現在も第一線で活躍するレーシングガレージやチューナーは、この時代を起点とするところがほとんどで、同じシャシー、エンジンを使う条件の中で、どれだけ相手より優位に立てるかという創意と工夫が、自ずと最先端技術力として血肉となったものだ。
こうした見方をすれば、多少の選択肢はあったものの、大筋でシャシーはマーチエンジニアリング社製、エンジンはBMW社製が日本のプライベーターを支える基本要素となってきた。
富士GCシリーズで言えば、初期段階ではシェブロン、ローラのシャシーとフォードFVC/BDAエンジンの組み合わせが基本だったが、BMWが新F2規定に合わせて2ℓM12/7型を開発し、マーチ社との連携によって専用シャシー(F2は732、スポーツカーは73S)を準備すると、またたく間に主役の座に就き、F2/GCともマーチ+BMWの寡占体制が出来上がっていった。
トップフォーミュラ、F2(F2000も含め)の場合はもっと端的で、マーチBMW以外に有力な車両が現れず、F2チャンピオンと言えばマーチBMWという時代が長らく続いた。
>>【画像15枚】80年代の声を聞くと同時に、長らくF2、富士GCと日本のトップレースを支えてきたBMWエンジンの前に、 思わぬ強敵が出現した。限定供給のホンダRA26#E系V6エンジンで、 またたく間に欧州、日本のF2を席巻。多くの市販BMWユーザーが劣勢に立たされる中、 技術集団ヤマハが独自の5バルブV型6気筒エンジンを開発してホンダに真っ向勝負を挑んだ。【2】に続く>> 1988年の全日本F3000選手権より。集団を率いるフットワークカラーのマーチ88B(鈴木亜久里)に積まれたエンジンはコスワース-ヤマハOX77。素性の確かなDFVをベースにヤマハ開発の5バルブヘッドを組み合わせたエンジンで、ホンダRA38#E系(後に無限MF308)に対し互角以上の性能を発揮した。
>> イコールコンディションのBMW時代に「日本一速い男」の名を不動のものにした星野一義。しかし、ホンダの参入によって一転、毎レース苦戦を強いられることに。本人いわく「思い出したくない時代だった」と振り返る。
【すべての写真を見る】【2】に続く初出: ハチマルヒーロー 2018年 3月号 vol.46
(記事中の内容は掲載当時のものを主とし、一部加筆したものです)
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