1972年終盤、ふたつの事実【1】戦う象徴としてのGT-Rレーシングカー|日産 スカイライン 2000 GT-R レーシングコンセプト

このオーバーフェンダーと、フロントスポイラーを装着した新型GT-Rが市販されることを望んだファンも多かったに違いない。現在なら可能性のある話だが、当時の運輸省では認可の可能性はゼロだった。爆発的な人気となったケンメリだがさらに売れただろう

       
【日産 スカイライン 2000 GT-R レーシングコンセプト Vol.1】

 2代目GT‐R、KPGC110がレースで使われたことはなかった。日産ワークスの実質的な活動が、1972年いっぱいで終了したこともあったが、スカイラインでは台頭著しいロータリー勢の相手をするには荷が重すぎる、という判断が働いたためだ。

 1972年4月、サバンナRX‐3がサーキットに登場すると、王者GT‐Rは劣勢に回ることを余儀なくされた。実際、大一番となった5月の日本グランプリでは表彰台に上れず、最終決戦として臨んだ10月の富士マスターズ250kmでは全滅を喫していた。

 その一方で、スカイラインシリーズは、この年9月に第4世代のC110系(以後、新)へと進化。これによりC10系(以後、旧)GT‐Rによるレース活動の期限は自ずと決定した。新型車を使わず旧モデルでレース活動を続けることは、自動車メーカーとして常識的にあり得ないことだからだ(唯一、グループA時代のスカイラインで例外を見ることができる)。
 1972年末、日産はドライバーの契約更改にあたり、全社を挙げて排ガス対策に取り組むため、1973年はワークスとして積極的なレース計画はなく、同年末でいったん休止すること、ドライバーは日産に影響を及ぼさない範囲で他車によるレース活動を認める、といった内容の確認が行われていた。

 一方、これと時期を相前後して開催された第19回東京モーターショーには、新型GT‐Rのレーシングコンセプトモデルを出展。まさに、ここで紹介する個体だが、このモデルの存在が新型GT‐Rによるレース活動を示唆していた。実際、モーターショー会場でこのモデルを目にした人なら、栄光を引き継いだ新型GT‐Rが再びサーキットで活躍する、そんな印象を強く持ったことは間違いないだろう。

 1972年終盤、わずか1〜2カ月間の出来事だが、ふたつの事実を客観的に並べると、日産の社内事情が急転したのか、あるいはショーモデルが販促効果だけを狙った確信犯だったのか、このいずれかだったことがうかがえる。


>>【画像11枚】パワーユニットのS20型は基本的に10系と同じ。最終的には260psレベルに達したエンジンだがそれ以上は望めない状態でもあった






>> ワイドでダイナミックな印象を与えるC110 GT-Rのレーシングルック。
 

【2】に続く

初出:ノスタルジックヒーロー 2017年10月号 vol.183
(記事中の内容は掲載当時のものを主とし、一部加筆したものです)

日産 スカイライン 2000 GT-R レーシングコンセプト(全3記事)

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photo : RYOTA-RAW SHIMIZU/清水良太郎

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