運転がダントツに面白い 【2】4輪車メーカーへの挑戦。2輪車で世界に名を轟かせた宗一郎が、さも当然かのようにもくろんだ4輪車への進出|ニッポン旧車の楽しみ方 第32回|HONDA車の真骨頂、運転の楽しさに魅せられる Vol.2

インパネには整然と計器が並び、その左端にイグニッションが位置する。ステアリングはロータス・エリートを模したといわれるデザイン。中央にあしらわれた「H」のマークが誇らしげだ。そのステアリングコラムの右側に付く、独立したキーホールを備えるステアリングのロック機構について、「アメリカ市場用に備えられたのだと思う」とクヌードセンさん。

       
1962年10月に東京・晴海で開催された第9回全日本自動車ショー。そのホンダブースに2台のオープンカーが展示された。1台はホンダスポーツ360、そしてもう1台がスポーツ500だった。この時をきっかけに、ホンダはライトウェイト・スポーツカーが得意なメーカーとして、今なおそのヒストリーが続いている。ふとしたきっかけでホンダS800を手に入れたオーナーが、その魅力にとりつかれていくストーリーをお届けする。

【 HONDA車の真骨頂、運転の楽しさに魅せられる Vol.2】


 【1】から続く

 今では多様な新型車を揃えるホンダという自動車メーカーは、その成り立ちが、数ある日本の自動車メーカーの中でも際立ってユニークである。そこには今日でも人気の高いスポーツカーのSシリーズが深くかかわっていた。

 ホンダの創業者、本田宗一郎が、抑えきれない自身の情熱に導かれるままに自力でスタートさせた2輪車メーカーが「ホンダ」の始まりであった。そのホンダは自社製の2輪車を駆り、ヨーロッパのレースで何と参戦3年目にして完全優勝を成し遂げる(1961年)。続けてアメリカでは販売促進の広報活動に努めた。「バイクは不良の乗り物」としか思われていなかったアメリカで、「素敵な人たちがホンダに乗っている」とのキャッチフレーズ(1963年)を掲げ、モーターサイクルに対する人々の悪印象を払拭することに成功。「明るいイメージのバイク」という新たな2輪車世界観をアメリカの人々に植えつけた。

 2輪車で世界に名を轟かせた後も夢のやまない宗一郎は次に、さも当然かのように4輪車への進出をもくろんだ。

>>【画像14枚】純正後付け品のセンタートンネル上部に設置された小物入れ付きのアームレストなど

 戦後の日本のモータリゼーションを振り返ってみれば、それは政治と自由経済のせめぎ合いといえた側面がある。GHQに製造制限を課され、思うようなクルマ開発など誰にもできなかった終戦直後の日本も、戦後復興を果たし社会が安定してくると、政府策定の国民車構想(1955年)が明るみに出る。

 政府が一般乗用車の製造を促したことで、自由なクルマ造りの機運が高まった。戦争が終わって役割を失っていた軍事航空機メーカーも4輪車業界へ参入し、数々の独立メーカーが元気に、そして自由にクルマ造りを始めたのだ。ホンダにおいても軽4輪車の研究開発を1958年にスタートさせている。

 そうした中、次第に陰の部分が社会に露呈していく。「交通戦争」と「自動車公害」だ。むやみな自動車製造は問題を助長するとの観点から、政府は一転、民間でのクルマ造りの統制を強める。1961年に示された「自動車行政の基本方針」がそれだ。4輪車業界への新規参入を制限するという法案だった。

「これが法律として成立してしまうと、困ったことになる」

 そう感じたホンダは機敏に動いた。のんびりしている時間はなかった。大慌てで試作車製作にとりかかると、半年後にはスポーツ360とT360を発表。法案成立前に見事4輪車製造実績を作ってみせたのだった。ここで試作車種にトラックを加えたのは、「ホンダ車の社会への貢献」を分かりやすくお役人に示す効果を持っていただろう。しかしホンダのスピリッツはもちろん、スポーツ360にあったのだ。

 S800の源流がスポーツ360にあることはよく知られた事実である。名称について区別しておこう。当時の自動車ショーの写真に記録されているように、Sシリーズのプロトタイプ車には「スポーツ」の名称が与えられていた。プロトタイプが無事市販車として発売された折には「S」と名前を改めた。

 プロトタイプをほぼそのまま引き継いだ市販車Sシリーズに特徴的だったのは、その駆動方式。チェーン駆動が主流の2輪車に精通したホンダだからこそのアイデアだったといわれる。この駆動方式を採用した結果、デファレンシャルは前方へと移動され、後輪車軸周辺に空きスペースができた。ピタリとこのスペースに収められたスペアタイヤを思うと、チェーン駆動はすなわち動力伝達系機械要素の配置換えの手段だったことが見えてくる。小さなスペースを効率良く利用するホンダのひらめきがここでも生きていた。

 チェーン駆動方式はS800前期型まで継続されたものの、1968年のマイナーチェンジでライブアクスル方式へと変更になった。その背景には、輸出を念頭に、この時期アメリカを発端に重要視され始めていた安全基準という考えに添ったマイナーチェンジということがあった。同様にダットサン・フェアレディも1967年に安全対策に基づく変更を迫られたことからも察せられる。

 自身が愛したロータス・エリートを思わせるS800クーペをも世に送り出し、理想のスポーツカーを造り終えたかのようだった宗一郎は、次は市販乗用車に夢を追った。それがNから1300にかかる流れだ。当時の社内の様子がホンダのホームページ(※欄外)に詳細に記録されていることをここで紹介しておこう。現代の製造技術の感覚から考えると、宗一郎はずいぶんと現場をかき乱していたように記述されているのが面白い。(出典・本田技研工業ホームページ、段落内敬称略)
 


変更したばかりのMk1のキャブレターが収まるエンジンルーム。スロットルケーブルが左側(写真手前側)からキャブレターに入っているのに注目。マスターシリンダー脇にはテールランプ切れ警告回路が備えられていたが、これもアメリカ市場用に加えられた機能らしいとのこと。





トランク内前方には、ボディと同色の燃料タンクが場所を占める。「未使用の工具セットを手に入れたんですよ」とクヌードセンさんはうれしそうに言った。その工具1つ1つにはもちろんのこと、車載ジャッキにも「HM」のロゴが入っていることを確認できた。トランクには黒いトノカバーも収められていた。





このS800はクヌードセンさんが2010年に行った分解塗装のおかげで、今でもシャシーや足回りの細部に至るまで塗装がピカピカだ。S800後期型では後輪懸架はライブアクスルと称する固定軸方式に変更された。それによってデフが車軸上に移動したために、スペアタイヤはリアバンパーぎりぎりまで後方に押し出される結果となった。



【3】に続く

ノスタルジックヒーロー 2016年8月号 Vol.176
(記事中の内容は掲載当時のものを主とし、一部加筆したものです)

HONDA車の真骨頂、運転の楽しさに魅せられる(全3記事)

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 【1】から続く

text & photo : HISASHI MASUI/増井久志

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