排ガス対策のため、メーカーによる国内のモータースポーツ活動は沈滞期を迎えていたが、
これをクリアした1970年代終盤から活動再開に向けて少しずつ動きが見られるようになってきた。
その口火となったのは、圧倒的なパワーと加速力を秘めたターボ技術だった。
【国内モータースポーツの隆盛 第2回 スピードとパワーで魅了した、ターボ時代の先駆け「スーパーシルエット」 Vol.4】
【3】から続く この頃になると、開発を積み重ねる日産勢に対してセリカ、RX‐7の戦闘力は相対的に低下。レースは日産勢対M1の対決で展開することになり、ターボパワーを生かしたストレートスピードの日産、優れたシャシー性能を生かしたコーナリングスピードのM1という図式が定着していた。
最初はバイオレットのオリジナルシャシーで戦っていた日産も、ノバエンジニアリングと共同で専用シャシーを製作したり、ターボエンジンの開発を継続的に進めるなど、実戦を通してレースノウハウを積み重ねていたが、それでも冷静な目でみれば、レーシングカーとして洗練された性能を持つM1に対し、まだまだ未成熟な要素を数多く残す日産勢だった。しかし、本格的なレース活動を再開したばかりの日本勢と考えればしかたのないことだった。
それよりも、570ps以上という桁外れのターボパワーがもたらす爆発的な加速力で、長い間スピードとパワーから遠ざかっていた日本のレースファンに、新鮮で強烈なシーンを提供し、楽しませた成果のほうがはるかに大きかった。
日産もこのスーパーシルエットの活動が下地となり、その後のニスモ創設、グループA/Cでの成功へとつながっていくことになる。
>> 【画像17枚】シリーズ開幕となった1979年、まだサバンナRX-3が多かったその第2戦からのひとコマや、1982年の日産、トヨタ、マツダの日本製シルエットフォーミュラが連なった写真など>> 1979年にPA10バイオレットで参戦した柳田春人は、ブルーバードターボとの間の時期でガゼールターボ(1981年)を使った。その柳田は1979年から1984年まで33戦11勝を挙げ、1980年と1983年のタイトルを獲得。まさに「シルエットの柳田」だった。
初出:ハチマルヒーロー 2015年 02月号 vol.28
(記事中の内容は掲載当時のものを主とし、一部加筆したものです)
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