【3】から続く86年シーズンの開幕戦「鈴鹿BIG2&4」の全参加車両は15台だったが、ホンダ4台、BMW1台、ヤマハ10台という内訳で、ヤマハが一気に主戦力の位置を占めていた。しかもヤマハは、第1戦松本、第2戦リース、第3戦松本と開幕3連勝を演じる勢いで、ホンダ陣営を慌てさせていた。
残念だったのは、日本のトップフォーミュラである2ℓF2規定がこの年いっぱいで終了することになり、せっかく熟成の域に達したOX66型が、短命に終わったことだ。翌87年から3ℓ規定のF3000シリーズに移行することが公表されていた。F1が急速にターボ化され、それまでの主戦エンジン、3ℓのコスワースDFVが余剰となり、それの再利用策として考案された新規定である。
しかし、ここでも手回しよくホンダは新エンジンのRA387E型を開発・投入。V6時代と同じく、まず4台に限定供給する体制で臨んだ。ちなみに、ホンダのエース格だった中嶋悟はこの年からF1にレギュラー参戦を開始。星野、鈴木利男、高橋国光、リースによる陣営構成となっている。
一方のヤマハも、F3000化に備えて新エンジンを準備。ヤマハ、ケン松浦、鈴木亜久里の体制で、亜久里は第5戦までをコスワースDFVで走り、第6戦から新エンジン、ヤマハOX77型で参戦。亜久里のすごいところは、強力なホンダエンジンを相手にDFVで戦った全5戦を2、2、4、3、2位と抜群の戦績で切り抜けていたことにあった。
OX77型は、コスワース・ヤマハとも呼ばれたように、ブロック以下がDFV、ヘッド回りがヤマハによる新規開発のエンジンで、OX66型と同じく5バルブ方式が採られていた。
OX77型は、投入直後の2戦、第6戦と第7戦を落としていたが、この年の最終2戦、第8戦と第9戦(共に鈴鹿戦)で連勝。早くもそのポテンシャルが並ではないことを示したが、年末にFISAが5バルブ方式の禁止を発表。全日本F3000に限って翌88年までの使用が認められた。
全8戦で開かれた88年全日本F3000選手権シリーズで、亜久里は優勝3回、2位3回の圧倒的な戦績でタイトルを獲得。翌89年からザクスピード・ヤマハ(OX88型)でF1に参戦することが決定した。
5バルブという独自の手法でF2/F3000界に旋風を巻き起こしたヤマハだったが、時としてその高性能ぶりが仇となり、レギューレーションで禁止される皮肉な道を歩んでいた。
>>【画像15枚】80年代の声を聞くと同時に、長らくF2、富士GCと日本のトップレースを支えてきたBMWエンジンの前に、 思わぬ強敵が出現した。限定供給のホンダRA26#E系V6エンジンで、 またたく間に欧州、日本のF2を席巻。多くの市販BMWユーザーが劣勢に立たされる中、 技術集団ヤマハが独自の5バルブV型6気筒エンジンを開発してホンダに真っ向勝負を挑んだ。>> コスワースDFVをベースにヘッドをヤマハ製5バルブに換装。コスワース-ヤマハOX77のネーミングで87年から始まる全日本F3000選手権(第6戦菅生より)に参戦。鈴木亜久里が早くも終盤2戦で連勝。BMWチューナーとして名を馳せたケン松浦が共同開発者として名を連ねるエンジンだ。
>> OX77型の使用は88年まで。中嶋、亜久里がF1転出のため不在となった89年の全日本F3000選手権で、当然のごとく(?)タイトルを獲得したのはこの男、レイトンハウスカラーで走る星野一義だった。
【すべての写真を見る】初出: ハチマルヒーロー 2018年 3月号 vol.46
(記事中の内容は掲載当時のものを主とし、一部加筆したものです)
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