「幼い頃からクルマの絵ばかり書いていた」カーデザイナーの道を志し、美術大学へ入学!|スペシャルインタビュー 中村史郎【1】

幼い頃からクルマの絵ばかり描いていた中村史郎氏

       

数々のカーデザインに携わり、話題のクルマを作り続けてきたカーデザイナー中村史郎さん。いすゞ自動車に入社してからは、チャレンジ精神で常に新しい道を開拓してきた。海外への留学、GM勤務、ヨーロッパのデザインスタジオ設立など、数々の実績を残した足跡を追ってみた。

【スペシャルインタビュー 中村史郎 vol.1】

 幼い頃からクルマの絵ばかり描いていた中村史郎さん。小学生の頃は日野ルノー、日産オースチンA50、いすゞヒルマン・ミンクスなどが走っていた時代。その中でも、ヒルマンの美しいシルエットに引かれていた。

 中学1年の時、学校から急いで帰って第1回日本グランプリのTV中継を見たという。ピーター・ウォーがロータス23をドライブし、圧倒的なスピードを誇っていたが、その速さよりも、クルマの形に驚いたのを鮮明に覚えている。

 同じ頃ベレットGTが販売されると、洗練された外観と、ヨーロッパのGTカーのようなアルミパネルで作られたインパネ、飛び出したメーターなどデザインの素晴らしさに目を見張ったのだった。その後、鈴鹿サーキットに行くようになり、レースカーが走る姿を目の当たりにすると、クルマへの情熱もさらに高まり、いつかはカーデザイナーになろうと思っていた。

 大阪の北野高校時代、愛読書は自動車雑誌の「カーグラフィック」だった。イタリアカロツェリアのデザイン特集の美しい写真などを眺め、さらにデザインにのめり込んで行くが、そんな時に転機が訪れる。

「カーグラフィックに寄稿していた児玉英雄さんが多摩美術大学からオペルに入社したことを知ったんです。そこで初めて、美術大学に行けば、自動車のデザインができるのだとわかり、すぐに絵の勉強を始めたんですが……」

 受験間際になって、デッサン用具を揃え、美術大学の受験に挑んだが、美術大学に向けて勉強していた生徒には敵わなかった。が、1年後には、武蔵野美術大学工業デザイン科に入学。

 そのころの武蔵野美大にはカーデザインのクラスはなかったので、趣味のジャズに没頭し、学校にはあまり行かなかったという。しかし大学の卒業を迎え、就職先として自動車会社を選ぶことになった。

 東京を離れたくないという思いも強く、日産、ホンダ、いすゞ自動車の3社にしぼられた。そして、デザインセンスが高いと感じていたいすゞ自動車を選んだという。

【画像13枚】いすゞ車をはじめ、数々のカーデザインに関わった中村史郎氏と、いすゞ車のレストア企画に携わる二人にインタビュー! ヨーロッパに設立したデザインスタジオで作ったコンセプトモデル「ヴィークロス」。ジェミニ4WDのシャシーを使って、コンパクトなボディを採用。タイトな室内空間で当時の一般的なSUVとは一線を画すコンセプトを持っていた。93年の東京モーターショーでも展示された


>>中村氏を最も引きつけたいすゞ車はベレットだった。とくに日本グランプリなどのレースで大活躍したGTXは、スポーツカー好きだった中村さんを熱中させた。中学時代にデビューしたべレット1500GT(写真は1600GT)を初めて見たときの驚きは鮮明に覚えているという。


【2】へ続く

初出:ノスタルジックヒーロー 2019年6月号 vol.193
(記事中の内容は掲載当時のものを主とし、一部加筆したものです)

スペシャルインタビュー 中村史郎(全3記事)

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text:Keishi Watanabe/渡辺圭史 Photo:Isuzu Motors/いすゞ自動車

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