ジェミニクーペに乗りながら、カーデザインを学んだいすゞ時代。海外留学を経て、人脈は世界中に!|スペシャルインタビュー 中村史郎【2】

1989年東京モーターショーで展示されたいすゞ4200R。今見ても新しさを感じるデザイン。比較的コンパクトな車格で、スポーツカーとしてのポテンシャルを秘めていたボディ形状。市販には至らなかった

数々のカーデザインに携わり、話題のクルマを作り続けてきたカーデザイナー中村史郎さん。いすゞ自動車に入社してからは、チャレンジ精神で常に新しい道を開拓してきた。海外への留学、GM勤務、ヨーロッパのデザインスタジオ設立など、数々の実績を残した足跡を追ってみた。

【スペシャルインタビュー 中村史郎 vol.2】

「カースタイリングという専門誌を見ていても、レンダリングがかっこいいと思うのはいすゞ自動車のデザイナー。当時はGMと提携をしていたし、デザインの技術は最先端をいっていたんじゃないかと思いますよ。それとメディアで井ノ口誼さんというデザインのトップの方を知っていた影響もあります。」と当時を振り返る。。

 無心で絵を描いていたかつての「大きくなったら、クルマのデザイナーになりたい」という漠然とした思いが、導かれるように決まっていく瞬間であった。

 入社当時、いすゞ自動車には自由な雰囲気があった。経験の無い若手に、いろいろな事をさせてくれる社風だった。最初はクルマのパーツなどを担当しながら、3年目にはクルマ1台のデザインを任せられ、フルサイズモデルを指示する立場になり、量産車アスカを担当する。このスピードは普通はあり得ないことで、入社5年でクルマづくりのほとんどを学んでしまったのだ。

 社会人となって、クルマを所有できるようになったのもこの頃。当時はジェミニクーペに乗っていて、クルマとしてのバランスのよさに感心していた。

「デザインが洗練されているだけでなく、すごく乗りやすかったですね。オペル開発のボディだから、剛性も高かった。その前にはベレットGTに乗っていましたが、ジェミニは長時間のドライブでも疲れることがなくて、大阪への帰省で年に2回は使っていた」という。

 クルマのデザイン全般を習得した頃、カルフォルニアの「アートセンターオブカレッジ」へ留学することになった。周りの上司からは「もう学ぶことはないかもしれないが、アートセンターに行ってこい」と送り出されたという。実際、学校で教えてくれる内容は経験してきたことばかりで、技術的に新しいことはなかった。しかし、学ぶことは多かった。

「大量の課題が出て、それをこなすだけで忙しい毎日でした。非常に辛かっけど、限界に挑戦したり、今まで経験できなかったことを学んだ気がする」という。成績に関してはそれまでに実践で培ってきたおかげで、学内では常にトップ。周りからは一目置かれる存在になっていた。このことがのちのキャリアに影響を与えた。

「成績がよかったので、一緒に学んでいる仲間が私のことを信頼してくれるんです。そんな関係を築けたのは大きかった。卒業後、みんな自動車デザイナーとして世界に散らばっていき、各社で重要なポジションで活躍している。今になっても大切な人脈となっています」

【画像13枚】いすゞ時代の愛車はジェミニクーペ。海外留学では成績も良く、世界的人脈を形成した! コンセプトカーだったヴィークロスのテイストを継承しながら生まれた市販モデルのビークロス。ベースとなるシャシーがビッグホーンのものになったことで、車格はコンセプトカーよりも大きくなっている。先鋭的なデザインで、コンセプトカーも含めてSUVに一石を投じたクルマだ


>>中村氏もステアリングを握った初代ジェミニ。オペルカデットをベースに高い走行性能を誇った。ドライビングもしやすくバランスのとれたクルマとして高い評価を受けた一台。



【3】へ続く

初出:ノスタルジックヒーロー 2019年6月号 vol.193
(記事中の内容は掲載当時のものを主とし、一部加筆したものです)

スペシャルインタビュー 中村史郎(全3記事)

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text:Keishi Watanabe/渡辺圭史 Photo:Isuzu Motors/いすゞ自動車

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