1984年、童夢とトムスが、同じマシンで戦うことに。トヨタ童夢84C、トヨタ童夢85C【3】グループCカー時代の到来2:童夢とトムスで戦ったトヨタ陣営

1984年富士1000kmレースより。ヘアピンを行くワコール童夢84Cとトムス84Cのランデブー走行。先鋭的なスタイリングの車両が多い中、形の美しさ、色使いと童夢車は一線を画す存在だった

       
スーパーシルエットの流れを受け、宣伝3課を軸に始まった日産のグループC活動に対し、
トヨタ勢はそれぞれ独自にル・マンや海外でレース活動を行っていた、童夢とトムスが手を携える形で始まった。
トヨタエンジンに和製シャシー/チューナーの組み合わせである。

【国内モータースポーツの隆盛 第6回 グループCカー時代の到来2 童夢とトムスで戦ったトヨタ陣営 Vol.3】

【2】から続く

 1983年、全日本スポーツプロトタイプカー選手権=JSPCがはじまる。そして翌1984年、シリーズ2年目となり、童夢とトムスで使用車両は一本化されることになった。

この車両がトヨタ童夢84Cで、童夢が手掛けたグループC専用設計のシャシーに、トヨタ4T‐G型ターボを搭載。当時、グループCカーのひとつの完成形と言われたポルシェ956を模した設計だったが、林みのるが率いる童夢だけに、レーシングカーながら造形美を意識した美しいボディフォルムが特徴の車両だった。

 搭載エンジンの選定は、実際のところ唯一無二、他に選択肢のない中での決定だった。トヨタには、WRCセリカで使われた18R‐G型ベースの152E型4バルブDOHCもあったが、いかんせん基本設計が1970年代前半と古く、しかもターボ過給の考えがない時代の代物だっただけに、高出力性と耐久力、さらに燃費性能が要求される最新のグループCカー規定には、どう見ても不向きだった。

 その代わりと言っては語弊があるかもしれないが、WRC用グループBセリカのために準備した4T‐G型ターボエンジンが使える環境にあった。と言っても、2L級エンジンがグループCカー用として必ずしも最適でないことは明らかだった。小排気量を高過給で使うため、耐久性と燃費性能で不利になるからだ。

 4T‐G型ターボエンジンは、すでにWRC用として開発が進められていただけに、グループCカー用に転用してもそこそこの性能レベルは確保できるはずだったが、実際には少しばかり様相が違っていた。ラリーカーとグループCカーとでは、要求性能域が異なったからである。しかし、実戦を通じて最適化が行われ、希にだがJSPC戦では、ポルシェの間隙をぬって勝ち星を挙げることもあった。

 1985年シーズン用の85Cは84Cの空力改善版。ル・マン仕様のロングテールボディも開発され、童夢とトムスはル・マンに再参戦。トヨタ車によるル・マン初参戦となった。また、JSPC戦では前年型の84Cがプライベートチームの手に渡り、85Cと84Cによるトヨタ勢力が形成され、日産勢とポルシェを追う体制にあった。


>> 【画像15枚】シャシーは両サイドに大きなボックス断面を持つアルミツインチューブモノコックにスペースフレーム構造のエンジンベイを組み合わせる構造となるトヨタ童夢84Cのスケッチとシャシー。その改良型となるトムス86Cのスケッチなど



>> 500kmレース時は2名、1000kmレース時には3名編成としたドライバー陣容。写真は1984年富士1000km時の記念写真で、右から中嶋悟、松本恵二、関谷正徳。同年のトムス車は中嶋/松本組が基本。なぜか中嶋選手のレーシングスーツはF2/GC用のエプソン仕様。




>> トラブルによるピットサービスを受けるトムス84C。富士1000km予選時の1コマで、乗り込むドライバーは関谷正徳。当時のトヨタCカーは、排気量が2L級と小さなこともあり、予選では速かったがそれをレーススピードにつなげることができなかった。



【4】に続く


初出:ハチマルヒーロー 2015年 11月号 vol.32
(記事中の内容は掲載当時のものを主とし、一部加筆したものです)

グループCカー時代の到来2:童夢とトムスで戦ったトヨタ陣営(全4記事)

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【1】【2】から続く

text : AKIHIKO OUCHI/大内明彦 photo : AKIHIKO OUCHI/大内明彦 & DOME/童夢

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