「アメリカで売るなら、アメリカで造れ!」|日本車の北米市場での躍進とアメリカ人の心情 Vol.2

アメリカ自動車産業が不振に陥って国内の雇用状況が悪化するに従い、アメリカでは日本車の対米輸出規制を求める声が高まり、ジャパン・バッシング(日本叩き)が始まった。写真は、デトロイトの自動車工場をレイ・オフ(一時解雇)され、日本車にハンマーを振るい憂さ晴らしをする男性。米国産車のディーラーが考案した新商法で、ゼネラルモーターズの新車試乗者か米自動車会社をレイ・オフされた労働者は誰でも、この日本製自動車の名前などをペンキで記した中古車をハンマーで思い切り殴ってよいのだという。

       
本誌連載「アメリカ発! ニッポン旧車の楽しみ方」のリポーターとして活躍中の増井久志さんがカリフォルニア在住の経験を通じて感じた、アメリカ人とクルマの関係について、ご本人の考察を交えたコラムを寄稿してくれた。
声高に保護主義政策を唱える新大統領にも伝えたい、これまでに日本の自動車メーカーが心を砕いてアメリカに貢献してきたこと。
日本車が進出した当初から現在までニッポンのクルマはどのように扱われ、そして人々に受け入れられていったのかを振り返る。

【日本車の北米市場での躍進とアメリカ人の心情 Vol.2】

【1】から続く

80年代:不満の矛先は日本車へ。アメリカ製日本車の登場

「製品ではなく、雇用を輸出しろ! 」「ここで売るなら、ここで造れ! 」
 これは1980年ごろに全米自動車労働組合(UAW)が用いたデモスローガンだ。貿易摩擦に端を発するデモの様子は日本でも盛んに報道された。政治家も票のためにバッシングのパフォーマンスをしてみせた。1960年代までは当然だったアメリカ車の圧倒的優位が日本車によって脅かされていると感じ、アメリカ車が売れなくなっていく中で、仕事の減ったUAWは日本のメーカーに向かって叫んだのだった。
 日本メーカーの対応は冷静だった。また素直にアメリカの注文を飲んだ。1982年、ホンダがアメリカに工場を建てたのだ。アメリカはもちろんこれを歓迎した。
 ところがUAWにとって不測の事態が起こる。UAWは、当然だと考えていたこのホンダ新規労働者を、組合に取り込むことに失敗したのだ。現地生産へと進出した日本メーカー(ホンダと1983年進出の日産)から見れば、あえてUAWの労働力を使わないようにしたということだ。
 この日本メーカーの対応第2点目(今度は意志表示のあった対応)が決定的に明暗を分けた。これはすなわちアメリカ車とアメリカ製日本車の違いだ。小型車を作る際、UAW賃金体系ではフルサイズ車とほとんど同じコストがかかってしまう。すなわちUAW賃金体系では、安価であるべき小型車を安く作ることがそもそもできなかったのである。アメリカ製日本車は非UAWで生産され、今日まで続いている。
 比較できる例が、1983年に登場したGMとトヨタの合弁企業「NUMMI」(カリフォルニア州フリーモント市)だ。ここではUAWが日本式の生産方式を学ぶことが目指された。この協力体制から生まれた「トヨタ・キャバリエ」を所ジョージさんのコマーシャルで記憶されている人もいるだろう。残念ながらキャバリエの売り上げは伸びず、早々に日本から撤退。NUMMI自体は短期間で劇的な成功を収めたものの、GMはその成果を全米の他の工場へ広げることがうまく出来なかった。NUMMIは2009年のGM破産とともに消え、トヨタの協力は水泡に帰した。
 日本とアメリカの労働組合にはさまざまな違いがある(*)。そのうちの1つは、組合員が経営側(非組合員)へと昇進する機会がないことだ(日本では一般に、組合員の係長が課長へ昇進した段階で非組合員となる)。この非組合員(会社側)と組合員(労働者側)の橋渡しの無いことは、自然と両者対立の構図を生み出す。そしてそれは例えば、自動車の設計変更や組み立て工程変更に抵抗するという形で現場に表れる。アメリカの伝統的製造現場には労使協力して自動車を改善していくという土壌がなかった。

*参考資料:篠原健一「アメリカ自動車産業:競争力復活をもたらした現場改革」(中公新書2014年)

 NUMMIがスタートする直前までそれはGMの工場だったのだが、当時のUAW労働者の働きぶりが後日マスメディアで紹介されたことがある。それによると、勤務中に酒を飲んでいたとか、消費者への嫌がらせのために締めるべきボルトをゆるめておいたり空きビンをドア内部に仕込ませたりしたとか、また組合員の無断欠勤も日常茶飯事で生産ラインが動かせないこともあったと、信じがたい証言が並んでいた。組合が強いのをよいことに、経営側との対立をわざわざあおるような行為が行われていたのかもしれない。
 このような生産現場での状況に加えて、消費者の立場としてバンクスさんが「デトロイトが見逃した大事な変化」と指摘する事柄が重なった。それは共働き家族の出現。ウーマンリブ運動の結果として女性の教育が高まり社会進出も増加していた80年代は、アメリカでは夫婦共働きが珍しくなくなった。デトロイトはこの女性社会進出の潮流について行き損ねた。
「クルマが自由の象徴とかぜいたく品とかではなく、生活になくてはならないものになったのです。壊れるようなクルマに乗っている余裕がなくなった」
 すでにアメリカの家庭のライフスタイルは複雑に変化し、クルマには生活必需品としての高い信頼性が求められるようになっていた。
「私も経験があります。1984年のことです。仕事でフォード・フェアモントに乗っていましたが、まさに文字通り『5万マイル使い捨て』のようなクルマでした。5万マイルも走るとクルマの中のどれもこれも、まともに動作しなくなった」
 デトロイトは1970年から1980年にかけて高信頼性の小型車を作り損ね、需要の変化から取り残されていった様子が分かる。賢明な消費者の一部がそれでもデトロイト車を買っていた理由といえば、それは日本車の輸出制限が課され、アメリカ国内に日本車が足りなくなっていたからだった。結果的にアメリカ車が再び売れ始め、デトロイトは不況から脱したと判断された。
 80年代の自動車産業において、アメリカ内は一枚岩ではなかった。政府が安全対策と環境保護の基準を作れば、デトロイト上層部は反発して政治家を動かす。半面基準を満たした日本車は消費者に支持される。クルマの売れなくなったUAWは日本に不公平だと文句をつけるだけでなく、日本メーカーのやりたい放題を野放図にしておく自国政府にも不平を言う。デトロイトのメーカー内部では上層部がロビー活動にいそしむため、エンジニアには製品改善のプレッシャーがかからず、それでもあえて設計を変更しようとすれば、組み立てを行うUAWの作業者から反発を受ける。これでは良い製品など到底できるわけがない、と日本人には思えてしまう。
 アメリカの好きだったはずの自由市場主義経済。異なる法律と労働形態の下で製造された自動車を同一市場で同一条件で販売することは不公平だと、これにトランプ大統領は反対している。

>>【画像3枚】かつてのNUMMIだったカリフォルニア市フリーモント市にあるテスラ・モーターズ工場など



【3】に続く

初出:ノスタルジックヒーロー 2017年4月号 vol.180
(記事中の内容は掲載当時のものを主とし、一部加筆したものです)

日本車の北米市場での躍進とアメリカ人の心情(全3記事)



【1】から続く

text & photo:HISASHI MASUI/増井久志 photo support:ANNA BANKS/アナ・バンクス

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