TESLAの工場はかつてのNUMMIだった。当時間違いなく売れた日本車を好きになったアメリカ人とは|日本車の北米市場での躍進とアメリカ人の心情 Vol.3

カリフォルニア市フリーモント市にあるテスラ・モーターズ工場。ここがかつてのNUMMIだった。近所の日本料理屋の店主は「トヨタさんがいたころは忙しかった」と当時を懐かしむ。GM工場時代にここで発生した問題は、組合が強いことに加えて、西海岸カリフォルニア州の自由な風土が働いたのかもしれない。GM工場が稼働していた時代にはカリフォルニアでヒッピー文化が発祥している。

       
本誌連載「アメリカ発! ニッポン旧車の楽しみ方」のリポーターとして活躍中の増井久志さんがカリフォルニア在住の経験を通じて感じた、アメリカ人とクルマの関係について、ご本人の考察を交えたコラムを寄稿してくれた。
声高に保護主義政策を唱える新大統領にも伝えたい、これまでに日本の自動車メーカーが心を砕いてアメリカに貢献してきたこと。
日本車が進出した当初から現在までニッポンのクルマはどのように扱われ、そして人々に受け入れられていったのかを振り返る。

【日本車の北米市場での躍進とアメリカ人の心情 Vol.3】

【2】から続く

考察:アメリカ西部の風土が、日本車を受け入れてくれた

 いわゆるアメリカ人は一般に、ヨーロッパ車を受け入れることに抵抗はない。その理由は2つ。人種的および文化的(キリスト教信仰など)に、いわゆる元来のアメリカ人とヨーロッパ人は同類であること。2つ目は、アメリカ自動車産業の健全性と競争力において、ヨーロッパ車は脅威と見なされるようなことはかつて一度もなかったこと。バンクスさんはそう説明する。移民の国アメリカは、他者を受け入れる懐の広さがある。
 これに対してアジアの国である日本については、アメリカで強大な産業分野であった自動車業界を脅かすほどになってしまった。売り込み方についても、売れるだけ製品を送りつけてくる遠慮や謙虚さのかけらもない、エコノミックアニマルととらえられた。
 戦後から冷戦時代を通じて日本人は俺たちの子分(our boys)だったじゃないか、というのが当時に生きたアメリカ人の言い分だ。アメリカの古き良き時代を謳歌し、デトロイトを支えてきた彼らとその家族はデトロイト車を通じてライフスタイルを確立した。今でも整備の行き届いた50年代から80年代のデトロイト車を大切にしながら乗っている。自分たちの大好きなクルマを生み出しアメリカ発展の象徴であったデトロイトが、日本車によって叩きのめされるのを目の当たりにしたアメリカ人たち。その苦渋は、俺たちの大好きだったデトロイトをメチャクチャにしたのは日本車だと、これを目の敵にし、毛嫌いする方向へと導いた。今でもその思いはくすぶっている。デトロイト車が幸せな家族の象徴ならば、日本車はデトロイト凋落の象徴なのだ。
「これがアメリカのクラシックカー趣味の主流の人たちのように思えます」
バンクスさんは言う。
 では日本車を好きになったアメリカ人はだれだったのだろう。マーチン・スウィッグさんによれば(本誌VOL150)、当時間違いなく日本車はどんどん売れていたのだ。
 その答えは広大なアメリカの地域性にあった。アメリカの伝統的自動車産業の中心はデトロイト。この中西部ミシガン州の町はアメリカ独立戦争にも縁のある古い町である。18世紀後半にイギリスからの独立を果たしたアメリカは東部から、西へ西へと開拓が拡大していった。そのため保守的な東部や中西部に比して、西部に形成された気風は自由、寛容、好奇心。外来品を受け入れやすい土壌があった。日本は太平洋を挟んでその西部に対峙している。日本車の輸入は当然西海岸から始まった。デトロイトの自動車産業にも関わりが薄く、日本車に抵抗がなかった西海岸。そんな風土に日本車はすんなりと受け入れられ、定着した。
 これから10年もたてば、アメリカでクルマを中心にライフスタイルを確立した世代は間違いなく減っていく。
「アメリカではこれまで、デトロイト車を主とするクルマ趣味グループが中心でした。『オレのフォードのほうが、あんたのシボレーなんかより100倍いいぜ』。そんな決まり文句の言い草も、これからはなくなっていくでしょう。『オレのマツダのほうがあんたのスバルなんかより100倍いいぜ』なんて言うのは、日本旧車ファンには似合いませんしね」

まとめ:アメリカの自動車産業が、日本から学んだこと

 日本のクルマ作りは、GHQが戦後日本の占領維持には相当な費用がかかったことから、「クルマを造って自分たちで稼げ」と促したのがそもそものきっかけだった。日本は、待ってましたとばかりに早速クルマ造りを始め、あれよあれよという間に自動車産業を発展させてしまった。アメリカは、まさかと思いながらも有効な対策を取れないまま、自らの首を絞める結果になった。
 デトロイトはその影響をもろに受けた。クルマとともにアメリカの青春を謳歌した世代は、大好きだったクルマを造ってくれたデトロイトの凋落をいたたまれない気持ちで見ていた。容赦なくデトロイトをいじめる日本車を憎むようになった。ましてやある個人が自動車産業に関わっていたとしたら、それは趣味の話だけに留まらず、愛する家族の生活までかかった問題だったのだ。
 ジャパン・バッシングから30年が経ち、今日では自動車はどれもグローバルな品質になって来ている。その時代変化に付いていくべく、UAWも労使関係改善の努力を重ねている。その努力の基盤にはNUMMIでの経験が多分に生かされているという。トヨタがもたらしたカンバン方式だけではく、日本の製造業のノウハウである「カイゼン」「5S」など、日本発祥の概念と行動規範はアメリカの企業でもそのまま導入されている。アメリカ自動車産業が新しい姿で復活するのもそれほど遠い日のことではない。

>>【画像3枚】70~80年代に自動車産業に関わったアメリカ人が経験した苦しい心の内を代弁してくれたバンクスさんなど


初出:ノスタルジックヒーロー 2017年4月号 vol.180
(記事中の内容は掲載当時のものを主とし、一部加筆したものです)

日本車の北米市場での躍進とアメリカ人の心情(全3記事)



【1】【2】から続く

text & photo:HISASHI MASUI/増井久志 photo support:ANNA BANKS/アナ・バンクス

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