マーチ812を追うBMWエンジン| 国内モータースポーツの隆盛 第19回 【2】ヤマハOX66とその後のOX77

1988年の全日本F3000選手権より。集団を率いるフットワークカラーのマーチ88B(鈴木亜久里)に積まれたエンジンはコスワース-ヤマハOX77。素性の確かなDFVをベースにヤマハ開発の5バルブヘッドを組み合わせたエンジンで、ホンダRA38#E系(後に無限MF308)に対し互角以上の性能を発揮した

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このことは、ヨーロッパF2の影響によるもので、F1の直下に位置するF2はF1へのステップボードという性格が強く、ドライバー技量を競い合うという意味では、車両性能の統一化(ワンブランド化)は望ましい状況でもあった。こうした意味でのマーチBMWは、性能の絶対値も高いことから、ほぼ理想と呼べるF2像だった。

実際には、テクノのようにエンジン/シャシーとも作ってくるコンストラクターもあれば、AGSのようにタイトルを獲得するコンストラクターも現れたが、F2カテゴリーに継続的に優れた性能の車両を安定して供給できたのはマーチとBMWだけだった。

ところが、80年代に入ると同時に平穏だったF2環境に異変が生じることになる。F1復帰も視野に入れた日本のホンダが、新たに2ℓV型6気筒エンジン(RA26#E系)を開発し、ラルトシャシーに搭載してヨーロッパF2選手権に参入。ドライバーは、当時まだ無名だったが、今振り返ればアッと驚くナイジェル・マンセルを起用。翌81年にはジェフ・リースを主戦ドライバーに据え、ヨーロッパF2選手権を席巻し始めていた。

2ℓ規定の全日本F2界を制したホンダV6エンジン。中嶋悟とはこの時代に密接な結び付きが確立し、その後のF1進出へとつながっていく。なんといっても、BMWに対して20psとも30psとも見積もられたパワーアドバンテージは決定的だった。

そしてこの年、日本のF2選手権にもホンダはエンジン供給を開始。生沢徹率いるI&Iレーシングで、ドライバーは当時売り出し中の中嶋悟。マーチ812に搭載し(初戦のみラルトRH‐6を使用)2勝を挙げてこの年の全日本/鈴鹿の両タイトルを獲得。翌82年はマーチ822を使って6戦中4勝と勝率を上げ、再び全日本/鈴鹿のダブルタイトルを獲得している。

限定供給(レギュラー参戦は中嶋悟1人)のホンダを相手に、BMW勢は完全に屈する力関係となっていた。

どちらかと言えば、長いストローク値からトルクを稼ぐ性格のBMWエンジンだったが、優に20〜30 psは勝ると言われたホンダV6の出現により、対抗上回転馬力型のポールロッシュBキットやハイニマーダーといったショートストローク仕様の用意を余儀なくされていた。

 この限定供給のホンダV6に対し、敢然と闘志を燃やしたのが東名BMWを使う星野一義で、チューナーの指示を無視する回転域まで回しながら、中嶋悟を追うレースを続けていた。

>>【画像15枚】80年代の声を聞くと同時に、長らくF2、富士GCと日本のトップレースを支えてきたBMWエンジンの前に、 思わぬ強敵が出現した。限定供給のホンダRA26#E系V6エンジンで、 またたく間に欧州、日本のF2を席巻。多くの市販BMWユーザーが劣勢に立たされる中、 技術集団ヤマハが独自の5バルブV型6気筒エンジンを開発してホンダに真っ向勝負を挑んだ。

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右吸気/左排気のレイアウトを採るBMW・M12-7型エンジンのインダクションポッドに誇らしげに書かれた「BMW M Power」の文字。ゼッケン3のユニペックスマーチを操るのは、当時若手売り出し中のナンバー1ドライバーだった高橋徹。
>> 右吸気/左排気のレイアウトを採るBMW・M12-7型エンジンのインダクションポッドに誇らしげに書かれた「BMW M Power」の文字。ゼッケン3のユニペックスマーチを操るのは、当時若手売り出し中のナンバー1ドライバーだった高橋徹。

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初出: ハチマルヒーロー 2018年 3月号 vol.46
(記事中の内容は掲載当時のものを主とし、一部加筆したものです)

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TEXT : AKIHIKO OUCHI/大内明彦  COOPERATION : YAMAHA MOTOR Co.,Ltd./ヤマハ発動機、 Fuji International Speedway Co.,Ltd./富士スピードウェイ

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