年に1台、日産のヒストリックカーの復元を手掛ける日産名車再生クラブが2018年のプロジェクトとして1972年式サニー1200クーペGX-5の再生を手掛けた。すでに昨年12月のニスモフェスティバルでその勇姿を披露。今年2月には作業の完了報告会が開かれたが、そこまでの作業の様子、車両の状態をお届けすることにしよう。
【日産名車再生クラブプロジェクト2018 1972年式 日産 サニー 1200クーペGX-5 vol.1】
年に1台、いまや恒例となった、日産ヒストリックカーのレストアを手掛ける日産自動車社内有志グループ、日産名車再生クラブの2018年プロジェクトが無事完了した。
18年の再生テーマとなった車両は、サニー1200クーペGX-5のTS仕様だ。正確にお伝えすると、1972年の東京モーターショーに参考出品された個体を、完動状態として復元作業を試みた車両である。
【画像23枚】毎年恒例の日産名車再生クラブの2018年プロジェクトはB110サニーGX-5!2004年の日産240RS復元に端を発する同クラブの再生プロジェクト史だが、基本的には日産が所有するヒストリックレーシングカーの復元作業がメインテーマで、実際レースに使われた車両、あるいはショー出展のためなどに作られたコンセプトモデルだったりと、その年に応じてテーマ車両の選定はさまざまだ。
今回、復元対象となったサニー1200GX-5は、日産自動車宣伝課が1972年の東京モーターショーに合わせ、当時新発売となったサニー1200GX-5にスポーツパーツを装着し、デモカーとして出展した車両である。GX-5の発売がきっかけで、宣伝課が開発した豊富なスポーツーパーツを多くの人にアピールしよう、というのがその狙いである。
当時の日産モータースポーツは、グループ7カーによる純レーシングマシンの計画が中止。量産車ベースの車両、スカイラインGT-Rがロータリー勢としのぎを削り、フェアレディ240ZをGTカーカデコリーに投入、社運を賭けた新型小型車チェリーの開発に傾注する状態にあった。
こうした意味では、サニーは追浜(ワークス)が手を付けず、大森(宣伝課)が主導権を握って開発を進めた珍しい車種で、さらに大森の開発パーツはベースパーツとして使われ、最終的にはプライベートチューナー個々の開発したパーツが多用される状況だった。
B110サニーそのものは、1970年11月、自身も大森契約のドライバーながら東名自動車を主宰する鈴木誠一が、トランスニクス富士100㎞に参戦。これがB110サニーのサーキットデビューだったが、当時完璧な王座を築き上げていたトヨタ3K型エンジン搭載車、それもTSC‐Rが走らせるカローラ・クーペ、パブリカSL連合軍を撃破。一躍新型サニーのポテンシャルが注目され、1971年以降、日産系レースユーザーが続々とサニーに乗り始めていた。
>>サニークーペのレースデビューは1970年11月だったが追浜は関与せず。大森(宣伝課)主体の開発で活動自体も大森、プライベーターが主体となっていた。
【2】へ続く初出:ノスタルジックヒーロー 2019年2月号 vol.192
(記事中の内容は掲載当時のものを主とし、一部加筆したものです)
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