日本人初のル・マン24時間を制した男 関谷正徳物語 1|トヨタがル・マン24時間優勝を果たしたが、先人たちの活躍も忘れてはならない!

1995年に日本人初のル・マン24時間レースを初制覇を成し遂げた関谷正徳(左)と、Y・ダルマス(中央)、JJ・レート(右)。この時のスポンサーは、美容整形でおなじみの上野クリニックだった。

       

雨はレースを翻弄する。敵にするか、味方にするか。雨のレースで苦労しながらも最後に味方にしたのがレーシングドライバー・関谷正徳だ。1972年4月9日の「72レース・ド・ニッポン」。関谷22歳のデビューレース。静岡マツダのチーム監督兼ドライバーの白鳥哲次が買ったファミリアロータリークーペを雨の中で全損させてしまった。「すみませんでした」と関谷は平身低頭で謝った。

 ここから23年の時は流れる。関谷は45歳。1995年6月17~18日の「第63回ル・マン24時間レース」。関谷がこのレースに出ることになったのは、安川実(インディドライバーのロジャー安川の父、元レイトンハウスF1チームマネージャー)がマクラーレンで働いていて、企画をしたからだ。レギュレーションがこの年から大きく変わった。グループCというカテゴリーが終わり、WSCクラスのオープンプロトやGT1クラスが走れることになった。そこにマクラーレンF1 GTR(91年に発売されたロードゴーイングカーをレースに投入したクルマ)が大挙7台エントリーした。

「ヨーロッパからル・マンに出場できるかもしれないという話が聞こえてきた。チャンスがあれば出てみたい、と安川さんに希望を伝えていた。もちろん出場が決まったときトヨタの許可を取りました」

 安川は上野クリニックのスポンサーを取り、国際開発UKからエントリーした。マシンはマクラーレンカーズの所有で、シャシーナンバーは01。初期のテストや開発のために使われたワークスマシンだ。

クルマ
1995年のル・マンは激しい雨の中で戦われた。クレバーな3人の落ち着いた判断が59号車のマクラ
ーレンF1 GTRを勝利に導いた。

 59号車(関谷組)はル・マンに送り出す前にすべてのパーツを組み込むことができた唯一のマシンだ。しかし、水曜日の予選で59号車に水漏れが発生、木曜日の予選でオーバーレブのためBMWエンジンを載せ替えている。7台中エンジンを換装したのは59号車だけだった。金曜の夜、ル・マンのコース近くの空港でJJ・レートとY・ダルマスがテスト走行を行った。このテストをしておいたため、決勝ではメカニカルトラブルはまったく発生しなかった。

 F1 GTRの設計者のゴードン・マレー(ファンカーのブラバムBT46Bの設計者として有名)は「クラッチやミッションは24時間もつかどうかわからない」と事前に発言していた。

「ぶっつけ本番で、テスト走行は一切ない。そんな厳しい環境でも問題ありません。1回目の予選でJJ・レートは3分58秒73、ボクとの差は13秒。2回目の予選には8秒差になりました」とさらりと話す関谷。

人物
設計者のゴードン・マレー(左)が「クラッチやミッションは24時間もつかどうかわからない」と事
前に発言していたとおり、51号車にトラブルが発生したために関谷組のマクラーレンF1 GTRが優勝。

 決勝の夜、雨が降ってきた。
「次は関谷だけど、オレが代わってやろうか」とJJ・レート。

「ローテーションどおりボクが乗るよ。92年にトヨタTS010(関谷/P・H・ラファエル/K・アチソン組)で2位(日本人初の表彰台)になってるし、8回もル・マンを走っている。雨の経験もあったが、今回は特に前が見えないくらいひどい。長いレース人生でこんな怖い思いをしたことはない。インディアナポリスの手前のコーナーで、雨、霧、水たまりで走行ラインが見えない上、コースのどこでもハイドロプレーニング現象(タイヤと路面の間に水が入り込みステアリングやブレーキが利かなくなる)は起こる」と関谷。

 決勝では本命の51号車のA・ウォレス/D・ベル/J・ベル組にゴードン・マレーが予言したとおりクラッチトラブルが発生。フィニッシュまで2時間の時点ですぐピットアウトができない。7分間をロス。59号車がトップに立ち、優勝を飾ることができた。

 優勝した関谷組のマクラーレンF1 GTRの走行距離は4055km。1周13.629kmのサルテサーキットを298周。例年より20%も少ない。ちなみにマツダ787Bは91年のル・マンで362周(関谷組は54周少ない)し優勝している。
 走行距離によって関谷の輝かしい栄光は色褪せることはない。それだけ激しい雨の中をスピンせず、クラッシュせずに走りきったことになる。3人(JJ・レート、Y・ダルマス、関谷)のドライバーが雨のレースを完全にコントロールし、読み切ったといえる。

 雨が降り始めた時、51号車のA・ウォレスや49号車のJ・ニールセンがスリックタイヤを履いたが、慎重派のY・ダルマスがピットインし、レインタイヤに交換した。リスクを回避し、マシンをいたわった。Y・ダルマスのタイヤ選択が勝利の一因になった。

 3位になったD・ベルが「日本人で勝ったのはお前が初めてか」と聞く。関谷が「イエス」と答えると、「それなら関谷は金持ちになれるぞ」とジョーク交じりに話しかけた。
「日本人初ル・マン優勝者」という称号を得たことは紛れもない事実だ。それは、トムスだけでなく、トヨタだけでなく、日本のレース界だけでなく、日本人社会が認めたことになる。

人物



掲載:ノスタルジックヒーロー 2011年8月号 Vol.146(記事中の内容はすべて掲載当時のものです)

cooperation:Masanori Sekiya/関谷正徳

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