日本人初のル・マン24時間を制した男 関谷正徳物語 2|トヨタがル・マン24時間優勝を果たしたが、先人たちの活躍も忘れてはならない!

静岡マツダからサバンナでレースに参戦した関谷。左は監督の白鳥哲次。

       
1995年の第63回ル・マン24時間レースを日本人として初制覇したドライバーで、現在トムスのスーパーGT、スーパーフォーミュラー、フォーミュラー3のエグゼクティブアドバイザーを務める関谷正徳。もちろん日本を代表するレーシングドライバーの1人。今回はそんな関谷のレース人生を振り返ってみよう。


関谷正徳(せきやまさのり)1949年11月27日、静岡県静岡市葵区井川(旧安部郡井川村)生まれ。実家は井川ダムのために水没し、その近くに盛土して家を建てている。父親は最初自転車屋を開業していたが、57年(関谷少年8歳)から自動車屋(マツダ系モータース)を始め、母親は豆腐屋を営んでいる。父親の店は静岡マツダ系列の優良な販売店で、マツダから表彰されるほどだった。しかし、66年4月、不幸な事故が起きた。父親は静岡市内での表彰式に出席した帰り、井川湖にクルマが転落し水死している。家業を継いだのは兄晃弘だった。関谷は静岡市で下宿し常葉学園橘高等学校へ通う。高校1年で運転免許を取得し、兄からキャロルを譲り受け静岡市内を走り回った。

人物

 1966年5月、富士スピードウェイ(FISCO)で開催された第3回日本グランプリへ兄と一緒に行った。亡くなった父親が買ってあったチケットで観戦した。プリンスR380に乗る砂子義一が優勝した。3位は細谷四方洋のトヨタ2000GT。パンフレットには三船敏郎監督率いる日野サムライが掲載されていた。車検が通らず決勝には出場できなかった。関谷はこのレースのことは鮮明に覚えている。

 しかし、日本グランプリの後、関谷は交通事故を起こし、高校を停学になった。復学しても、自分で謹慎し高校3年までクルマに乗らなかった。卒業すると、専門学校静岡工科自動車大学校(通称静岡工科、旧称静岡自動車学校整備科)で整備士3級を取得。父親と親交の深かった後のレース監督の白鳥哲次との関係もあったので関谷は静岡マツダにメカニックとして入社した。
「会社にあったマラソン・デ・ラ・ルート84時間レース(コスモスポーツが4位)やスパ・フランコルシャン24時間レース(ファミリアロータリークーペが5、6位)のプロモーションフィルムを見て、ボクたちもレースをやりたいなと憧れました」

 4、5人の若者が月に1~2回、ワリカンでFISCOのサーキット走行を楽しむようになった。静岡マツダの会社では有志が集まってクラブを作り、レースに参加した。リーダー役の白鳥がまったくプライベートで活動を始め、会社と折衝して途中から少しずつレース参加を認めてくれるようになった。しかし、デビューレースの1972年4月9日「72レース・ド・ニッポン」で関谷は雨のために転倒。白鳥のクルマが一瞬にして廃車になった。当時、関谷は雨に対する知識もなく、性能のいいオールウエザータイヤが入手できなかった。2年後にダンロップCR65オールウエザータイヤを履いて走ったら「タイヤでこんなに違うんだ。他のクルマとのタイムの差は腕の差ではなかったんだ」と気がついた。

 関谷はメカニックとして静岡マツダに入社したが「ボクは几帳面じゃないし、すぐセールスに変わり、レースではドライバーに専念しました」。

 1975年4月20日の「75富士フレッシュマンレース・シリーズNo2」ではサバンナRX‐3で優勝。2位はマツダオート東京のサポートを受ける今津隆行(サバンナRX‐3)。この頃には会社から少しずつ支援が受けられるようになり、関谷はスーパーツーリングレースに進出する。1977年3月20日の「富士300kmスピードレース」。予選。ポールポジションは中嶋悟(グリーンサバンナ)で1分34秒15、スリックタイヤを履く。

 関谷(静マツサバンナ)は4位で1分35秒47、オールウエザータイヤを履く。決勝はコースに水たまりが残っている。1周目、中嶋、関谷の順でスタンド前を通過。4周目に関谷がヘアピンでトップになるが、次の周は中嶋。6周目に関谷、9周目に中嶋、と目まぐるしくトップが入れ替わる。スリックの中嶋とオールウエザーの関谷。互いにスリップストリームを使いながら、必死にフェイントをかける。関谷は中嶋を射程距離内に捕らえて離さない。21周目、100Rから出てきたのは中嶋だけ、4秒遅れでやっと関谷。

「2台が接触してスピンした。中嶋くんが先に再スタートできた」タイヤの違いはあったが2人のドライバーの意地をかけた名勝負だった。


人物
1975年4月20日の「75富士フレッシュマンレース・シリーズNo2」で優勝した関谷サバンナ。2位は
津隆行、3位は勝田守。


 1977年11月27日の「富士ビクトリー200kmレース」。予選でダンロップのニュータイプを履く関谷(静マツサバンナ)が1分29秒17でポールポジション。2位は萩原雄一(サバンナRX-3)。3位は中嶋(サバンナGT)。エンジントラブルのために予選で計測できなかった柳田春人(セントラル20 240Z)が最後尾の14位に沈む。

 決勝は大荒れに荒れた。1周目の100Rで中嶋がアウトから関谷を抜き、トップに立つ。関谷もスタンド前でトップを奪い返す。3周目の100Rでアウトの中嶋とインの関谷が接触。2台がふらつく。1台のマシンがオイルをまき散らしたため6周目にチェッカーフラッグが降られる。再スタート。残りは9周。6周目の順位に戻されたたため、関谷の10秒リードはフイになる。

 関谷は再スタート時にクラッチを傷めて4位へポジションダウンするが、すぐ首位を挽回する。ライバルの中嶋はエンジントラブルでリタイア。柳田は最後尾から2位まで上がったが猛追もそこまで。関谷が優勝。接触の多い後味の悪いレースだった。

 1977年のシーズンは中嶋がFJ1300でチャンピオンになり、関谷がスーパーツーリングの念願のチャンピオンになった。このチャンピオンの獲得によって、関谷の評価は上がったが、戦闘力のあるマシンが与えられ、GC(グランチャンピオンレース)に好条件でステップアップできるわけではなかった。


掲載:ノスタルジックヒーロー 2011年8月号 Vol.146(記事中の内容はすべて掲載当時のものです

cooperation:Masanori Sekiya/関谷正徳

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