ボルボ240、ジャガーXJS、ローバーヴィテスと、何の変哲もない乗用車に史上最強のメカニズムを持つ日本車はことごとく歯が立たなかった。使用パーツの追加公認システムが成せるワザだったが、1987年、これらの車両がいきなり勝てなくなった。その理由とは?
【 国内モータースポーツの隆盛 第9回 量産車の性能で戦う「ハコ」グループAの到来:奥の手、エボリューションモデルの登場 Vol.4】
【3】から続く その星野と開発ドライバーとしても優秀な能力を備えた理論派オロフソンを組み合わたことは、たった1台でインターTECに臨むGTS‐Rの存在を、日産がどれほど重要視していたかということの表れだった。
デビュー戦となるこのレースに、日産は戦績面でそれほど期待していなかったはずだが、これを抜きにしても相手が悪かった。ボルボやローバーに代わり、フォードシエラとBMW・M3が登場してきたからだ。しかもこの両者は、ワークスのエッゲンバーガー、シュニッツァーだった。ただ、冷静に眺めれば、GTS‐Rの能力を測るには不足のない相手でもあった。
結果は、開発初期にありがちなマイナートラブルで後退。トップ10の上位8台をシエラとM3が占め、M3は2クラスながらシエラと同ラップの3、4位につける大健闘。日本車勢の最上位は3ラップ遅れ、9位のスープラターボだったから、本場ETC勢との実力差は明らかだった。
翌1988年、日産勢は一斉にR31GTS‐Rに車両を変更。しかし、トランピオチームを筆頭とする有力プライベート勢がシエラを使用。主導権は握れなかったがシーズン開幕から2連勝。インターTECでは、ワークスカーのリコーGTS‐Rに乗る鈴木亜久里が、チームの厳命どおりにポールポジション獲得と、エボリューションモデルらしいスピードを見せていた。
フル参戦2年目となる1989年は、6戦中1位3回、2位1回という抜群の成績で長谷見昌弘/A・オロフソン組リーボックスカイラインがタイトルを獲得。車両の安定度、完成度は高く、なによりシエラ相手のチャンピオンだったことに大きな価値があった。
>>【画像14枚】トヨタは1988年にグループA対策のスープラターボAを開発。7M-G型ターボを積むモデルで外観上はワイドボディとバンパーの3連インテークが特徴だった。上は1988年のミノルタカラー、下は1989年の富士通テンバイヨカラー1989年インターTECより。バイヨースープラターボを従えて走るリーボックスカイライン。この年、長谷見/オロフソン組は1位3回、2位1回でJTCタイトルを獲得。シエラと互角の性能を見せた。
星野レーシングは1988年からGTS-RでグループAに参戦。1988年は和田孝夫/北野元組、1989年は和田に代わり星野自身が参戦。前年同様、北野元とのコンビだった。第2戦の西仙台ハイランドで優勝。
初出:ハチマルヒーロー 2016年 5月号 vol.35
(記事中の内容は掲載当時のものを主とし、一部加筆したものです)
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