黒船の来襲からの再起【2】ポルシェやフェアレディZの参戦を封じたグループA車両|量産車の性能で戦う「ハコ」の時代グループA|国内モータースポーツの隆盛

ETCでは立ち上がりの早かったトヨタだが、JTCでも1クラスにAE86、3クラスにセリカXX(スープラ)を投入。いずれもETCを経験している車両で期待を持たれたが結果は好対照。60系セリカXXは結果を残せなかった

       
1982年、世界のモータースポーツ界は大きな転換点を迎えていた。
車両規定が大きく変わり、ツーリングカーレースは量産車の基本性能で戦うグループA規定が適用された。
折しも、日本は排ガス対策明けでハイメカ、性能自慢の量産車が覇を競う形で割拠していたが……。

【 黒船の来襲、そして砕かれた自信からの再起  Vol.2】

【1】から続く

 こうした状況になった理由は明らかで、ほぼ1970年代いっぱいメーカーを悩ませ続けた排ガス対策にあった。市場に投入する新型車は、重量増や排気関連のメカニズムによってレースに不向きだったこと、メーカー側にレース用車を開発する余裕がなかったことなどがその主な理由だ。

 もっとも、メーカー不在、同一モデルを長く使い続けることが、チューナーを軸とするプライベーターの力を引き上げることになり、結果的に日本のレース界底上げの大きな原動力となるのだから、何が幸いするか分からないものである。

 一方、世界視野で眺めたツーリングカーレースは、グループ2/4規定がチューニング合戦の末に行き詰まりの様相を見せていた。多額の費用、高度な技術が必要とされ、参戦メーカーが限られる状況になっていたからだ。

>>【画像14枚】BTCCでグループA戦を経験していた三菱は、JTCの実施と同時にスタリオンターボを投入。強豪日産勢がグループAに着手したばかりということもあり、1985年シーズンは日本車の代表格として活躍。ただこの時点ですでに基本設計が古くなっていた


 そして、この問題に対する解決策が1982年に実施されるグループA規定だった。グループA規定の大きな特徴は、量産車からレース用車に変更する際、大幅な改造を禁止する点にあった。もう少し詳細に言うと、動力性能、運動性能の向上にかかわる生産車の基本メカニズムに手を加えることを一切禁止したのである。言い換えれば、量産車の基本性能で戦え、ということである。

 これならば、過度のチューニング戦争に陥ることもなく、車両性能も近似した状態に保たれ、より多くのメーカー系エントラントが得られるだろう、と目論んだわけである。

 もちろん、レース狙いの高度なメカニズムを持つ少量生産モデルの登場を封じる対策も万全だった。グループA車両の公認取得条件を、連続した12カ月間に5000台以上の生産としたのである。簡単に言えば、参戦車両が少量生産のスポーツカーではなく、量産型のセダン(=ツーリングカー)となるよう生産台数による縛りを設けたわけである。
 さらに、スポーツカーではなくセダンであることの根拠として、室内寸法の制限も設けていた。セダンとして人を乗せるためには、それなりの室内空間容積が必要だろう、という解釈である。生産台数とキャビンサイズの制約により、ポルシェやフェアレディZの参戦を封じたのである。

 このグループA規定の実施は、グループC(WEC)やグループB(WRC)と同じく1982年からだったが、ツーリングカーだけは世界選手権規定ではなく、ヨーロッパ選手権(ETC)が最高位として始められた。



>> ETC、BTCC用にジャガーXJ-Sを開発したTWRはローバービテスも手掛けていた。見かけは実用ファストバックセダンだが応答性に優れたハンドリングを示し、ETCでの戦闘力は高かった。JTCにはスンダイが導入し1986年シーズンを走らせた。







>> たった2台のボルボに独走を許した1985年の富士インターTEC。やっと3番手に日本勢が食い込んだが車両はBMW635。日本車勢はまったく歯が立たずその実力差に大きな衝撃を受けた。まさに黒船の来襲、日本車グループAの元年となった。


【3】に続く

初出:ハチマルヒーロー 2016年 3月号 vol.34
(記事中の内容は掲載当時のものを主とし、一部加筆したものです)

量産車の性能で戦う「ハコ」の時代グループA【1】|黒船の来襲、そして砕かれた自信からの再起 (全4記事)

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【1】から続く

text & photo : AKIHIKO OUCHI/大内明彦

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