日本の自動車メーカーにとって「ル・マン」は大きなあこがれ、目標だった。まだ、世界の頂点すら見えない時代から、いつかはル・マンの思いを抱き続けてきた。そしてその思いを諦めることなく、自分たちの力で出来る範囲で追い続けてきたのがマツダスピードとマツダだった。1973年に始まるル・マンへの挑戦、その転換点はマルチローター化だった。
【MAZDA757/767 Vol.3】
79年から82年まで、量産車RX-7ベースの252から254でル・マンを戦ったマツダは、規定がグループCに変わったことを受け、83年に由良拓也デザインのボディワークを持つレース専用車両717Cを開発。
もっとも、13B型ロータリーが最大排気量となるマツダにとって、無差別級のグループCクラスで戦うだけのエンジンはなく、ひとつ下のカテゴリー「グループCジュニア(後にC2と改称)」に狙いを定める進出だった。
この頃になると、マツダスピードも東京マツダのモータースポーツコーナーではなく、マツダなどの出資による(株)マツダスピードとして法人化され、マツダのモータースポーツカンパニーとして独立した組織にその内容を変えていた。
717C系は85年の737Cまで発展するが、初年度となる83年のル・マンでCジュニアクラス優勝、84年には727Cに先着した13B型を積むローラT616マツダがC2クラス優勝と、ロータリーエンジンは2年連続で当面考えられる最高の戦績を残すことに成功。
しかし、これが13B型による限界だったのかもしれない。
【画像14枚】日本の自動車メーカーの夢でもあった「ル・マン」挑戦の転換点となったマツダ>>727を2台、ローラT616を2台、計4台で臨んだ1984年のル・マンは、ローラの1台がクラス優勝。727は優勝を逃すかたちだったが、2台とも完走したことでル・マンでの夢、フォーメーションフィニッシュを実現した。
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(記事中の内容は掲載当時のものを主とし、一部加筆したものです)
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