1950年代のクルマ事情【3】日本の自動車産業が一気に開花。全日本自動車ショウも開催され、人々の関心がクルマに

日産自動車が生み出した戦後初のオープンカー、ダットサンスポーツDC-3。のちのダットサン・フェアレディにつながっていく

戦後間もない時期、復興に活躍したオート三輪から路上の主役を奪っていったのが50年代に入って登場したクルマたちだ。今も残る大メーカーから、忘れられた中小メーカーまで、当時活躍した各社のクルマを振り返ってみよう

【1950年代のクルマ事情vol.3】

技術面において日産を凌駕していた高速機関工業は、太田祐雄氏が創設した太田自動車製作所がルーツだ。戦前にロードスターやフェートンを生み出し、いち早くレーシングカーも製作している。戦後は47年にオオタPA1と名付けた小型の2ドアセダンを発表した。このPAの4ドア版、上級モデルとしてオオタPBが51年に登場した。

また、同じ時期に美しいデザインのステーションワゴンと前輪独立懸架のオオタPDを誕生させている。しかし、朝鮮戦争が休戦になると日本は不況に見舞われた。高速機関工業も経営の危機に瀕し、55年に経営破綻。くろがね三輪トラックで知られる日本内燃機に吸収された。その後のヒット作は、60年に発売した軽四輪トラックのくろがねベビーだ。が、スバルサンバーとの販売合戦に敗れた。くろがねの流れを組む企業は、今の日産工機である。

石川島造船所の自動車部門をルーツとし、長い歴史を誇る東京自動車工業は、戦後になるといすゞ自動車と社名を変えた。トラック、バスを得意とするいすゞも、技術力を高めるためにイギリスのルーツ社と提携し、54年からヒルマンの生産を開始している。また、日野ヂーゼル工業(現・日野自動車工業)も、通産省の国産乗用車育成の方針に賛同し、52年7月にフランスのルノー公団と提携を結んだ。それから1年足らずの間にルノー4CVの第1号車を完成させ、ノックダウンを開始した。

リアに積まれるのは782ccの直列4気筒OHVだ。これに3速MTを組み合わせ、軽快な走りを見せている。日野ルノーはヒット作となり、57年9月には完全国産化された。この日野ルノーの生産で培った技術力を駆使して独自開発されたファミリーカーが、61年3月に発表されたコンテッサだ。

新三菱重工業の東日本重工業は、50年秋にアメリカのカイザー・フレーザー社と提携を結んでいる。川崎製作所でノックダウンを行ったのがヘンリーJだ。51年6月にはジープのサイドバルブエンジンを積んだ第1号車が完成。52年には6気筒エンジンを積んだヘンリーJデラックスを発売した。だが、大半が2ドアセダンだったし、カイザー・フレーザー社が生産を打ち切ったため、提携を解消している。

また、ウイリス・オーバーランド社の輸入代理店だった倉敷フレーザーモーター社が輸入したウイリス・ジープのパーツを、新三菱重工業の名古屋製作所大江工場で組み立てた。最初はノックダウン方式だったが、その後、正式に契約を結んで製造権と販売権を獲得している。ボディやシャシーだけでなくエンジンの国産化にも取り組んだ。完全国産化したのは56年である。

53年5月には自動車産業展示会が上野で開催され、54年には全日本自動車ショウが始まった。自動車に対する人々の関心は、一気に高まっていく。

【画像7枚】国産自動車メーカー各社が成長をみせ、1954年には全日本自動車ショウが開催された。


初出:ノスタルジックヒーロー 2019年 8月号 Vol.194

(記事中の内容は掲載当時のものを主とし、一部加筆したものです)


1950年代のクルマ事情(全4記事)

関連記事:1950年代の旧車たち

【4】に続く

TEXT:HIDEAKI KATAOKA/片岡英明 PHOTO:いすゞ自動車株式会社、日産自動車株式会社/トヨタ自動車株式会社

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