1950年代のクルマ事情【1】戦後間もない時期、オート三輪が活躍していた。やがて四輪自動車の台頭が始まる

いすゞ自動車がノックダウン生産した、英ルーツ社のヒルマン・ミンクス。日産のオースチンや日野のルノーに比べ、英国車らしいスマートなデザインが特徴

       
戦後間もない時期、復興に活躍したオート三輪から路上の主役を奪っていったのが50年代に入って登場したクルマたちだ。今も残る大メーカーから、忘れられた中小メーカーまで、当時活躍した各社のクルマを振り返ってみよう

【1950年代のクルマ事情vol.1】

昭和の初期、1930年代に日産自動車とトヨタ自動車が相次いで誕生した。自動車産業としての基礎を築き、オートメーションによる量産に意欲を燃やしたのが、この30年代だ。だが、日中15年戦争や第二次世界大戦が勃発し、軍事用の車両を除き、開発の道は閉ざされてしまう。そして45年に日本は敗戦という形で終戦を迎えた。

日本はアメリカ軍の管理下に置かれ、総司令部(GHQ)は、軍需の象徴だった飛行機や乗用車の生産を禁止する。だから、この時期の主役は復興の働き手となるトラックとオート三輪と呼ばれる三輪トラックだ。戦前のモデルを少しだけ設計変更して送り出した三輪トラックが新三菱重工(現・三菱自動車)の水島製作所が組み上げたみずしま号である。ほかに東洋工業(現・マツダ)と発動機製造(現・ダイハツ)もオート三輪の生産を再開した。

今では伝説となったナニワ(汽車製造)やくろがねも生産を再開する。少し遅れて愛知機械工業はヂャイアントを、三井精機工業はオリエントを市場に投入した。また、新明和興業もアキツを販売するなど、日本の道路は、町から村までオート三輪に染まっていく。

乗用車の生産制限が解けるのは昭和24年、西暦1949年の10月である。この翌年には朝鮮戦争の火ぶたが切られた。アメリカと親密な関係にある日本はトラックなどの特需にわき、元気を取り戻している。取引先のアメリカから品質と生産コストに厳しい条件が与えられたことは、今の日本車の高品質なクルマづくりとコスト低減を生む生産体制へとつながっていった。

自動車御三家と呼ばれたトヨタ、日産、いすゞ自動車の3社は、信頼性の高い乗用車を生み出すために、違うアプローチで再生を図った。トヨタは50年代に入ると激しい労働争議に直面し、苦境に立たされている。この経営危機を教訓として、トヨタ生産方式に代表される新しい発想による生産と経営のシステムを確立していったのだ。また、トヨタの販売力を強化するために51年に開発・生産部門と販売部門を切り離した。販売専門のトヨタ自動車販売を立ち上げたのだが、この工販分離体制は30年後の81年まで続いた。

もうひとつ、大きな決断を行っている。それは純国産主義で高品質の乗用車を誕生させようと意気込んだことだ。トヨタは自動車先進国である欧米の外国資本との技術提携をよしとせず、独自技術を積み上げて世界に対抗できるクルマづくりを目指した。同じような志を持った自動車メーカーが、航空機メーカーをルーツにしている富士精密工業(後のプリンス自動車)と富士重工業(現・スバル)、そしてオオタを送り出している高速機関工業だ。

【画像7枚】飛行機や乗用車の生産が禁止されていた時代から、生産解禁まで、戦後の日本のクルマ事情



初出:ノスタルジックヒーロー 2019年 8月号 Vol.194

(記事中の内容は掲載当時のものを主とし、一部加筆したものです)


1950年代のクルマ事情(全4記事)

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【2】に続く

TEXT:HIDEAKI KATAOKA/片岡英明 PHOTO:いすゞ自動車株式会社、日産自動車株式会社/トヨタ自動車株式会社

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