中島飛行機をルーツとする富士重工業|スバルデザインの起源と伝承 Vol.1

スバル360と、その設計開発の中心となった百瀬晋六のストーリーは、たびたび採り上げてきた。そして百瀬とともにスバル360の個性的なデザインをつくりあげたのが、美術大学で教鞭を執っていた工業デザイナー、佐々木達三だった。そしてこの1台の軽四輪自動車が誕生する過程の中で、スバルの技術思想の根底にあるべき考え方が醸成されていったのだ。

後に「百瀬イズム」「佐々木イズム」と呼ばれるモノづくりの考え方は、使う人のことを徹底的に考えた製品づくりを指し、その教えは次の世代のデザイナーたちに受け継がれていった。スバル360から初代レガシィまでのデザインワークにかかわった加藤登は、まさに直系の継承者。その加藤にスバルデザインの起源の伝承について、語ってもらった。

60年秋、加藤は百瀬と出会う。

78年3月、ザ・ニューレオーネの試作車が完成。その試走式で立ち話をする百瀬(左)と加藤。
スバル360が世に出て3年後の61年に、加藤は富士重工業に入社。百瀬イズムを叩き込まれながら、デザイナーとしての経験を積んでいった。

 
富士重工業が、中島飛行機をルーツとする自動車(そして飛行機)メーカーであることはよく知られている。現在、スバルブランドの代表作となっているのは、レガシィとインプレッサだ。昭和のブランドイメージを築いた傑作、それは今も多くの人たちに愛されている「スバル360」だろう。誕生したのは西暦1958年、日本の年号では昭和33年の3月3日だった。3が並んだ日に産声をあげている。このスバル360は2008年に生誕50周年の節目を迎えた。

 スバル360を筆頭に、日本で初めて水平対向4気筒エンジンを積んだFF方式のスバル1000などを生み出し、スバルの父と呼ばれたのが開発主査を務めた百瀬晋六である。19年(大正8年)、長野県塩尻の造り酒屋の次男として生まれた百瀬は、東京帝国大学の航空機学科を卒業、中島飛行機のエンジニアになった。戦後は富士自動車工業でバスの設計に携わり、51年からは自動車の研究に没頭。フルモノコックボディの試作4ドアセダン、P‐1に続いて手がけたのが、軽乗用車のスバル360だった。

 そしてもうひとり、スバルの50年史を語る上で欠くことのできない人物がいる。スバル360をデザインした工業デザイナーの佐々木達三だ。富士重工業から依頼され、軽自動車をデザインした。自動車をデザインするのは初めてだったが、高効率パッケージ、愛らしいデザインのスバル360を生み出している。

 「百瀬さんは天才でした。世界に誇れるエンジニアだったと思いますよ。前例がないのに挑戦し、不可能はない、と頑張り続け、不朽の名作を生み出しました。デザイナーの佐々木さんは、理屈で固めたデザインじゃダメだ。趣きも情緒もない。デザインは人間そのものなんだよ、と常々おっしゃっていました」

 と、百瀬イズム、佐々木イズムを受け継ぐ加藤登は、ふたりの男のクルマ造り哲学について歯切れよく語った。

 ふたりに仕え、両者の性格と技量をよく知る加藤は、スバル360の全盛期から富士重工業の量産車のデザインにタッチし、現在のスバルデザインを確立したデザイナーである。出身地は富士重工業の本拠地、太田市の北東50kmのところにある栃木県の壬生町だ。


佐々木(右)からも実際の仕事を通じて、デザインワークの手順を伝授された。佐々木の自宅を訪問した時の加藤(左)。

 高校のときに教えを受けた美術の教師に感銘を受け、加藤は彫刻や鍛金などの金属工芸と工業デザインに興味を持つようになった。日を追うごとに思いは募り、師の母校である東京芸術大学を受験することを決める。そして晴れて合格し、美術学部金工科に入学したのだ。「金工」は読んで字のごとく、金属に細工を施す工芸のことである。

「壬生町から近い佐野は、その昔、鋳物の町として知られていました。それも芸大で鍛金工を志す理由になったのかもしれません。芸大の鍛金科の教授は、私の高校の美術の先生と同期でした。卒業が近くなると学生課の壁に張ってある求人のビラが気になり始めました。富士重工業からも就職情報が出ていましたが、すでに一人は採用が決まっていたんです。でも、2年先輩で富士重工業に勤めていた中村純一さんを頼り、何とか受験させてもらえるようにお願いしました。


百瀬との面接時に持参した、加藤の作品の中のひとつで水差し。

 最初は百瀬さんとの面談だったんですよ。60年秋のことでしたね。群馬製作所の技術本館でお会いしました。自分の作品を見てもらうのが一番だと思い、真鍮のメッキを施した灰皿や食器を、アメ横で買ったアメリカ軍放出のリュックサックに詰めて持参したんです。これをボロッと見せたのが好印象だったようで、作品を手にとって興味深げに見入っていました。その後、正式に面接を受けることになったのですが、心は決まっていました。内定通知をもらい、入社したのは61年の4月1日付です」

 と、加藤は百瀬との出会いを振り返る。


掲載:ノスタルジックヒーロー 2008年 08月号 vol.128(記事中の内容はすべて掲載当時のものです)

text:KATAOKA HIDEAKI/片岡英明 photo:INOMATA RYO/猪股 良

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