とにかく何かをしなくては、と1979年に始まったスーパーシルエットレースは、
立ち上げてみたら予想以上の人気で大成功。しかし、世界の動向はすでにグループCカーの時代へ突入。
要求性能のレベルが高く、自動車メーカーが本腰を入れて臨む条件が揃っていた。
【 ターボテクノロジーの大いなる進化、時代はグループ5からグループCへVol.2 国内モータースポーツの隆盛 第4回】
【1】から続く 結局、世界選手権は従来どおりのグループ6で、グループ5はヨーロッパ選手権および各国の国内選手権で適用される流れになっていた。日本にとって幸いだったのは、スーパーシルエットに参戦したヨーロッパ製の本格(?)グループ5カーがBMW・M1の1台だったことで、このM1が適度に速かったことから日産のターボトリオやトムス&童夢セリカ、ル・マンカーの流れをくむロータリー勢とおもしろいレースを展開できたことだった。
実際には、M1が本格的に走っていたらどうなっていたか、という見方も一方ではあったが、1982年、スカイラインが加わり「火を噴く」日産ターボトリオが完成したことで、レースの見どころはピークに達していた。
しかし、この年の10月、世界耐久選手権の第7戦として富士スピードウェイでWEC富士6時間が開催され、翌1983年からグループCカーによる全日本耐久選手権シリーズが始まることで、レース界の流れは一気にグループCへと傾いていった。
当時はまだメーカーによるモータースポーツへの直接参戦はなかった時期で、間接的ながら最も積極的な姿勢を見せていたのが日産(宣伝3/4課)だった。長谷見昌弘、星野一義、柳田春人へのスーパーシルエット活動を継続しながら、これと並行してグループCカーの活動支援を開始。Cカー用ターボエンジンの開発・供給が主な内容で、グループ5と同じLZ20B型ターボを選択。
当時の参戦形態は、宣伝3課が活動の中心となり、追浜開発のターボエンジンを日産系ユーザーに供給。もちろん誰でもOKというわけではなく、グループCカーの場合は、ハセミ・モータースポーツ、ホシノ・レーシング、セントラル20レーシングの3チーム、長谷見、星野、柳田への限定供給だった。
>> 【画像15枚】常識的に考えれば専用のレーシングカーシャシーを持つ本来のグループCカーにかなうわけもないのだが、シルエットフォーミュラーからの派生でどこまで戦えるかという技術トライの意味では興味深かったスカイラインなど>> こうして並べてみると同じR30スカイラインながらグループCとグループ5でかなりフォルムが違っていることが分かる。やはりグループ5は量産車の形に縛られる要素が大きく、逆にグループCは形を決めるうえで何の制約もなく、機能、性能優先のデザインを採ることができた。この差が形の違いになって現れた。
【3】に続く初出:ハチマルヒーロー 2015年 07月号 vol.30
(記事中の内容は掲載当時のものを主とし、一部加筆したものです)
ターボテクノロジーの大いなる進化、時代はグループ5からグループCへ(全4記事)関連記事:国内モータースポーツの隆盛 関連記事:グループC 【1】から続く