240Z以前にアメリカを魅了したビッグ・ヒーレー 2

国際的ラリーにおいても素晴らしい戦績を残す

 こうして最終進化を遂げたかに見えたヒーレー3000だが、最大のマーケットと想定していた北米の要望に応え、さらなる進化を重ねていった。時あたかもフリーウェイ時代が到来していたアメリカでは、おとなしいはずのセダンの間でもパワー競争が激しいものとなっていた。ならばピュアスポーツたるヒーレー3000には、さらなるパワーが求められるのは当然の成り行きだったのだろう。その後の3000は、度重なるパワーアップを受けるとともに、そのコンセプトはラグジュアリー志向となっていくのだ。

 その傍ら、当時のコンペティション・シーンにおいてもビッグ・ヒーレーは大きな存在感を示すことになる。オースチンも属するBMCのワークスチームが擁するヒーレー100‐6および3000は有名なチームカラー、スカーレット(赤)にクリーム色のハードトップが固定されたスタイルで、100‐6時代の58年シーズンから参戦開始。

 かのスターリング・モスの妹、のちに同じラリー・ドライバーのエリック・カールソン夫人となる女傑パット・モス/アン・ウィスダム組らの活躍により、のちにミニ・クーパーSに主役の座を譲る65年頃まで、欧州各地のラリーで華々しい成果を挙げてゆくことになった。

 これらモータースポーツでの活躍と、それ以上に車両そのものの商品性の高さゆえに、ヒーレー100‐6および改良・拡大版の3000は、北米で大ヒット。68年頃まで生産されることになる。しかし、ヒーレーが北米で築いたミドル級スポーツカー市場を継承したのは、同じイギリス製の後継モデルなどではなかった。新たに「アメリカの恋人」と呼ばれることになったスポーツカーこそ、我らがダットサン240Zだったのである。



ノスタルジックヒーロー 2016年8月号 Vol.176(記事中の内容はすべて掲載当時のものです)

text:Hiromi Takeda/武田公実 photo:Jyunichi Okumura/奥村純一

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