小型車の合理性と個性を花の都に認めさせたシトロエン2CV 1

復活した超小型車計画

 1934年、世界初の量産FWD車である名作「トラクシオン・アヴァン」を発表しつつも経営破綻に陥ったシトロンは、名門タイヤメーカーのミシュラン社傘下に収まることになった。

 そしてミシュランから派遣された副社長ピエール・ブーランジェは、35年の夏に偶然ヴァカンスに訪れた南仏の農村地域にて、農民たちが手押し車や牛馬の引く荷車に輸送を頼っている実態を目にする。既に世界の文化の都となっていたパリとは裏腹に、当時のフランスの農村は近代化が遅れ、移動手段といえばフランス革命以前と何ら変わらない状況にあったのだ。

 ミシュラン時代から慧眼で知られていたブーランジェは、それ以前からシトロエン社のラインナップに、かつての傑作5CVのような小型大衆車が欠落していること、そして慢性的な生産コストの高騰を認識していたという。そこで農民の安価かつ軽便な交通手段として供し得る自動車を作ることで新たな市場を開拓できるとともに、26年に5CVの生産が終了して以来途絶えていた小型車分野への再進出も可能となると判断するに至ったのである。

 そして翌36年、前衛的な作風で知られたヴォアザン社で、航空機から高級車の開発に携わったのち、シトロエンに移籍。トラクシオン・アヴァンも手掛けたアンドレ・ルフェーヴルをリーダーとする技術陣に対し、農民向けの小型自動車開発を命ずるに至った。

 この段階でブーランジェの提示したテーマは、「コウモリ傘に4つの車輪を付ける」という、シンプルの極致を示唆するもの。価格はトラクシオン・アヴァンの3分の1以下で、初めて自動車を所有する人々でも容易に運転できる扱いやすさも求められたとされている。

 こうして正式に立ち上がったプロジェクトは「Toute Petite Voiture(超小型車)」を略した「TPV」の略称で呼ばれ、第2次世界大戦前夜の39年には250台の試作車まで製作されていた。ところが、大戦の勃発とドイツ軍のフランス占領によってプロジェクトは中座。ブーランジェ社長は、軍需生産を強要するナチス当局に対してサボタージュなどのレジスタンス活動を隠然と行う一方で、TPV計画がナチスの手に渡ることを防ぐために試作車の破壊を命じた。

 しかしルフェーブルら技術陣は、ナチスはもちろんブーランジェにも内緒で、TPV試作車を隠匿。開発も秘密裏に進められた。そして連合軍がノルマンディー上陸を果たし、ドイツの敗色が濃厚となった44年には、TPV計画も堂々の復活を果たしたのである。








ノスタルジックヒーロー 2013年2月号 Vol.156(記事中の内容はすべて掲載当時のものです)

text:Hiromi Takeda/武田公実 photo:Daijiro Kori/郡 大二郎

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