数々のカーデザインに携わり、話題のクルマを作り続けてきたカーデザイナー中村史郎さん。いすゞ自動車に入社してからは、チャレンジ精神で常に新しい道を開拓してきた。海外への留学、GM勤務、ヨーロッパのデザインスタジオ設立など、数々の実績を残した足跡を追ってみた。
【スペシャルインタビュー 中村史郎 vol.3】
アートセンターオブカレッジの留学を終えて、日本に戻ってFFジェミニを担当したのちに、GMでのエクスチェンジプログラムとして、デトロイトのGMテックセンターの「アドバンススタジオ」での勤務となった。そして1年後に帰国。「3代目のジェミニやショーカーを手がけていました。いすゞ自動車はすでに北米ロサンジェルスにデザインセンターを立ち上げていたんですが、次はヨーロッパだろうということで、ヨーロッパでのデザインスタジオ立ち上げを志願しました」
ベルギーのブラッセルに事務所を構え、当初は1人でスタート。ロータスの若いデザイナー達と一緒につくったいすゞ4200Rは89年の東京モーターショーで展示され大きな話題を呼んだ。2+2ミッドシップスポーツで、インパクトが強いデザインだったが、残念ながら市販されることはなかった。
続いてイギリスのバーミンガムに移転しスタジオの規模を拡大。そして、新コンセプトのSUV「ヴィークロス」を手がけた。中村さんが一番思い出深いクルマと語るこのヴィークロスは、ジェミニのシャシーを利用して、乗用車ベースのSUVという新しいジャンルに挑戦したモデル。
実際はビッグホーンのシャシーを使った「ビークロス」として市販化されたが、本来のコンセプトは、現在世界中の自動車マーケットを席巻しているクロスオーバーSUVそのものだ。
その後、99年にヘッドハントされていすゞを退社し、日産に電撃移籍した。日産時代には数多くのヒットモデルを手がけ、17年に退社。現在も自らのスタジオをロサンゼルスに構える1流デザイナーのルーツは、子供時代のいすゞのクルマへの思いといすゞ自動車時代の経験にあったのだ。
【画像13枚】1989年東京モーターショーで展示されたいすゞ4200R。今見ても新しさを感じるデザイン。比較的コンパクトな車格で、スポーツカーとしてのポテンシャルを秘めていたボディ形状。市販には至らなかった。1999年にいすゞを退社して日産に電撃移籍をした中村史郎氏。そのルーツは、いすゞ車へのあこがれと、経験があったのだ>> コンセプトカーだったヴィークロスのテイストを継承しながら生まれた市販モデルのビークロス。ベースとなるシャシーがビッグホーンのものになったことで、車格はコンセプトカーよりも大きくなっている。先鋭的なデザインで、コンセプトカーも含めてSUVに一石を投じたクルマだ。
【1】【2】から続く初出:ノスタルジックヒーロー 2019年6月号 vol.193
(記事中の内容は掲載当時のものを主とし、一部加筆したものです)
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