庶民が憧れたクルマから、庶民の足となったタクシー〈クルマと歩んだ歴史ストーリー〉故にクルマは進化した


1931(昭和6)年の川鍋自動車商会(日本交通の前身の社名)の様子。不況対策として、大型車を売り小型車を購入した。クルマはフォードのプリムスと思われる。

昭和30年代、40年代の日本では、ハイヤーはもちろんタクシーに乗ることも一種のぜいたくだった。一般庶民は電車やバスで出かけるのが当たり前だったが、たまにタクシーに乗れるとものすごくうれしかったし、ある種の非日常を感じられる場でもあった。今は「ゲタ代わり」とか「庶民の足」といわれるタクシーも、かつては憧れの存在でもあったわけだが、そんな時代のタクシー事情を探ってみようと考え、最大手の日本交通株式会社を訪れてみた。

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タクシー車両 人物
1937(昭和12)年頃に使用していた車両。東宝自動車株式会社を設立し、川鍋自動車商会は事業を譲渡した年でもある。


 創業者の川鍋秋蔵さんが1928年(昭和3年)に1台の1928年式ビュイック幌型から営業を開始した日本交通は、今年で創業80年(取材当時)という老舗企業だ。日本交通という社名が制定されたのは終戦直後の45年のことだが、61年にはすでに立派な社史が編集されている。それをひもといていくとなかなか興味深い事柄が書かれており、当時の状況をうかがい知ることができる。そんななかでもまず興味を引くのが、52年の「プリンス車の大量発注」だ。

 52年のプリンス車というと、グロリアの前身であった初代スカイラインALSID-1の登場よりさらに5年前のことで、メーカー名は富士精密工業、車名はただ単に「プリンス」(AISH)となっている。富士精密工業が51年に日本で初めて6人乗り1.5L車の試作に成功し、翌52年3月に発売したクルマだった。ノックダウン生産車が乗用車の大勢を占めるなかで、まだ海のものとも山のものとも分からない純国産車をタクシーとして多数採用したところに気概を感じる。

タクシー車両 昭和27年ごろ
1952(昭和27)年、プリンス社の車両を大量採用した日本交通。同じメーカーのクルマを採用することによって、デザインの統一を行った当時のタクシーたち。


 日本交通の社史には「わが国も経済事情、国民の生活、交通事情、道路の現状など諸点からみて、今後のタクシーには中型車あるいは小型車を使用すべきであるという見解のもとに、欧州製中型車および小型車の使用を計画したが、輸入の状況をみると、まだこれを実現させることは困難であった」と書かれている。当時、ハイヤー、タクシーの使用に耐える輸入車は大型車がメインで、中・小型車の輸入が十分ではない事情があったのだろう。そこで日本交通はまだ産声をあげたばかりの純国産車の使用を考え、ある程度のリスクを覚悟しながらもプリンスの導入に踏み切ったものと思われる。

 52年11月には54台のプリンスを発注し、これは当時としては大幅な増車として業界でも注目されたという。さらに発注を重ねて翌53年11月末には129台まで増やしたのだが、翌54年にはそのすべてを欧州車(中型車)に代替している。やはり実際にタクシーに使ってみると、まだ性能も不十分で、改良すべき点が多々あったようだ。その不足部分をメーカーに提言して改良をうながすと同時に、不具合部分は自社工場で修理しながら走らせたようだ。わずか2年足らずのことながら、それにともなうコスト増も小さくなかったと記されている。


タクシー車両 ハイヤー車両
1960(昭和35)年頃、数寄屋橋付近で撮影された日本交通のハイヤー(右)とタクシー。ハイヤーは耐久性などを考慮して輸入車を採用することが多かった。


 タクシーとして大量採用され、その不具合情報、性能の足りない部分等が当時の富士精密工業へ直接フィードバックされたことで、プリンス車は大きく進化することになる。自家用車でガンガン走るような人はまだまだ少なく、メーカーにもロクなテストコースがなく、さらにロードテストのノウハウもなかった当時、タクシーとしての採用は最高の実車テストだったはずだ。そこで得られたノウハウが、その後のALSID-1から始まるスカイラインに生かされたと考えても間違いではないだろう。

 日本交通は多額の資金を投じてプリンス車を購入し、わずか2年で償却しなければならなかっただけにその犠牲も小さくなかった。日本の自動車史で多くは語られてこなかった部分だが、当時の国産車の進化には、メーカーの技術陣の努力に加え、タクシー会社というヘビーユーザーが大きく貢献してきたことも忘れてはならないだろう。

 ちなみに当時のタクシー料金は、55年時点でシボレー、フォード、プリムスなどの大型車が2kmで100円、プリンスやトヨペット、オースチンといった中型車が80円、ダットサンやルノー、オオタなどの小型車が70円だった。大卒初任給が1万2000円程度の時代に、たとえば東京の渋谷から銀座までの距離約7kmを走ると300~400円はかかり、地下鉄で行けば50円程度だったことを考えると、けっして安くはなかった。


 また、日本交通年史には58年頃にマスコミで騒がれた「神風タクシー」に関する記述もある。神武景気(54年12月~57年6月)と呼ばれた好景気の後、再び景気が後退してタクシーの売り上げが減るなか、一部のタクシーによる乱暴な運転が指摘されるようになり、新聞がセンセーショナルに取りあげ、さらに国会で議論されるまでに問題は大きくなった。当時の運輸大臣が大手タクシー会社の代表を呼び、対策を要望する事態となったが、これを機に乗務員の教育を含むタクシーの安全対策が一歩進んだ面もあった。日本交通も社長自らが委員長となって「事故防止特別対策委員会」を結成し、こうしたタクシーに対する悪評を取り除くべく、力を入れていくことになる。

タクシー車両
1960(昭和35)年、社内に教養係を新設。業界初の試みとして新人乗務員の教育講座として日交学校を開始した。写真は教育用に使用されたタクシー車両。


 日本のタクシーでは当たり前となった自動ドアが登場したのも59年頃で、日本交通では何台かで試用した後、間を置かずに全車種に取り付けている。欧米のタクシーではいまだにほとんど見られない自動ドアだが、日本ではもう50年も前に普及していたわけだ。また、タクシーメーターと連動するタクシーレジスターを全車両に装備したのも日本交通が最初だ。料金だけでなく会社名と電話番号、乗車日時、タクシーのナンバーまでが印刷されて出てくるもので、今も使われている領収書発行機の前身ともいえるものだ。80年代になっても、領収書は手書きのものをくれるタクシーも少なくなかったが、日本交通はすでに57年にはレジスターの装備をほぼ完了している。

タクシー 料金メーター
1960(昭和35)年頃のタクシー室内。無線機、タクシーレジスター(領収書発券機)、三列式つり銭器が見える。都内で無線営業が始まったのは60年のことだった(写真上)。66(昭和41)年に迎車メーターが初めて登場。60年頃のメーターとそれほど変化はない(写真下)。


 こうした先進的な取り組みは今も続いており、最近では2001年5月に車両やサービスをグレードアップしながら料金は変わらない「黒タク」を導入。さらに10月には日本交通タクシー専用乗り場も開設。黒タクに関しては、当初はハイヤーの顧客を食ってしまうのではないかという意見もあったが、今ではユーザーの高い支持を得ると同時に、黒タクを運転する乗務員の意識向上といった効果もあったという。また、事故時の記録だけでなく、周囲で不審な出来事があったときや災害時の記録もできるドライブレコーダーを全車に装備するなど、社会に貢献するタクシーを目指している。

 タクシー草創期からさまざまなノウハウを投入し、業界のスタンダードを確立してきた日本交通。これからも一歩先を行くサービスで「選ばれるタクシー」を目指すスタンスは、多くの企業が見習うべき好例として評価されていくはずだ。そしてタクシー、ハイヤーを走らせてきた多くの企業が自動車メーカーやオーナードライバーとはまた違った形で、クルマ社会の発展に貢献してきたことも忘れてはならないだろう。



掲載:ノスタルジックヒーロー 2009年10月号 Vol.135(記事中の内容はすべて掲載当時のものです)

text:Osamu Tabata/田畑 修

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