クルマにまつわるはじめて物語 クルマとともに歴史の第一歩を歩み始めた物や事柄を追う「自動車専用船に挑んだ K LINE」

第十とよた丸の積荷作業風景。岸壁から掛けられたカーラダーから自走で所定の場所へ移動。

今や毎年650万台を超える自動車を輸出している日本。国土交通省の統計によると1960年には年間3万8000台程度だった自動車輸出が、10年後の70年には100万台を突破。本格的な自動車輸出国への道を歩みはじめている。

 その輸出をがっちり支えてきたのが、クルマを積んで海を渡った自動車専用船だ。輸出台数が少ない時代は貨物船にクルマを載せていけば間に合ったのだろうが、年間100万台を超えるとなるとそうはいかない。そこで70年に、日本初の自動車専用船「第十とよた丸」が竣工し処女航海に出ている。

 PCC(Pure Car Carrier)と呼ばれる自動車専用船を日本で初めて運航したのは、K Lineのブランドで有名な川崎汽船だ。同社の常務執行役員(取材当時)である村上栄一さんに当時のお話をうかがってみよう。

船舶 第十とよた丸
70年に竣工した日本初となる自動車専用船「第十とよた丸」。来るべき自動車輸出の時代を支えた自動車運搬専用船だ。

人物 川崎汽船株式會社 常務執行役員村上栄一
川崎汽船株式會社の常務執行役員(取材当時)である村上栄一さんが、特殊な船舶でもある自動車専用船について詳しく説明してくれた。

「日産自動車が65年に追浜丸、66年には座間丸という輸出船の運航を始めていますが、これは自動車専用船ではなく、主に北米へ自動車を運び、帰りは穀物などを積んで帰ってくる兼用船(カーバルカー)でした。

われわれも、同じような方式でトヨタ自動車さんからの発注で68年に第一とよた丸を北米向けに就航させています。

ところがその処女航海で、北米へクルマを運んだまではよかったのですが、帰路に積む穀物がカナダの大雪で港に着かず、港で50日間も足止めを食らってしまったんです。

待てど暮らせど帰ってこず、これじゃどうにもならないとトヨタさんにも言われ、自動車専用船が必要じゃないか、となったわけです」


 たしかに、往路は自動車を満杯でも復路が空荷では、普通なら商売にならない。
一方で当時は自動車の輸出がうなぎ上りのペースで増えている時代だけに、荷待ちで40日も50日も間が開くようでは、これも商売に影響してくる。
そこで当時、まだ課長代理だった南雲四郎さん、後の社長がPCCの就航というアイデアを出したという。


「兼用船では1250台程度が採算ラインでしたが、これを1650台程度まで増やすことができれば復路が空荷でも採算が取れるという結論になりました。

それで船の大きさは変えずに、積載台数を増やすPCCの開発を造船メーカーである川崎重工とともに進め、そして完成したのが第十とよた丸だったわけです。

ここまでの大型PCCは世界でも例がなかったですし、開発はまさに手探り状態だったようですが、就航前のトライアルでは約20ノットの速度が出て、これは当時のレベルでもかなり速い部類だったですね」



 70年に完成した第十とよた丸は全長150mと、それまでの兼用船、第一とよた丸より2m長いだけだが、自動車積載能力は第一とよた丸の約1250台に対して、第十とよた丸は約2070台と大幅に増えている。

「積載台数だけでなく、クルマを積んで、降ろすシステムも考え直しています。第一とよた丸ではエレベーターを使って各船倉にクルマを運んでいたんですが、これはものすごく時間がかかるんですよ。

そこで第十とよた丸では船側壁に搬入口を設け、ランプウェイを通ってクルマが積み付け場所へ自走で行けるようにして、積み込みと積み降ろしの時間がかなり短縮できました」

自動車専用船 船舶内部
カーラダーから自走で所定の場所へ移動。指定の場所へ駐車した後、ドライバーたちはアシ車と呼ばれる迎えのクルマに乗って船内から出てくる。クルマの積み込みはシステマチックでスムーズな流れだ。一時間あたりの搭載台数が優に300台を超えるという驚きのハイペースで作業が進む。

 船倉の中にクルマが走り込んでいく光景は今では当たり前かもしれないが、これは自動車専用のPCCだから可能であり、兼用船にはここまでの設備はない。

川崎汽船のデータによると積み込みは1時間あたり300~350台、降ろし(揚げ)が200~250台まで高められている。第十とよた丸ではこれに速度アップが加わり、北米航海が1ラウンド2カ月近くかかっていたのが26~27日に短縮されている。この効率アップは大きく、これなら復路が空荷でも採算が取れるということだろう。


 ちなみにPCCという呼び名も南雲さんが考案し、今は世界での共通語になっているという。また、積載能力は当時のトヨペット・コロナ(RT43型)の車両サイズが基準となっており、それが世界のスタンダードとして使われている。


「当初、自動車というのは船会社から見ると嫌われものだったんですよ。キズやサビにデリケートなだけでなく、クルマを積むとその上には何も積めないですから効率も悪い。

運賃も安くしないと輸出先での車両価格が上がって競争力がなくなるので、低く抑えざるを得ない。でも、やがて日本の経済を支える自動車輸出は欠かせないものとなり、そのためには自動車専用船は必要不可欠なものとなっていくわけです」


 南雲氏の先見の明の産物ともいえるPCCだが、この日本初のPCCである第十とよた丸では、クルマそのものの積み方にも工夫が凝らされている。

「積み付け時はクルマの左右の間隔が10cm、前後の間隔が30cmとしています。10cmは人の通れる隙間ではありませんから、そこを不用意に通ってキズをつけることを防げますし、前後30cmはクルマを床に固定する作業と、緩んでいないか見回る作業のために必要な間隔です。さらに、作業員はボタンの露出していない特殊な作業服を着て、キズを付けることのないよう配慮しています」

自動車専用船内 運搬車両
クルマが所定の場所へ来るとラッシング作業員によってクルマが固定される。車間はすべて統一され、すし詰め状態で並んでいる。


 左右の間隔10cm! には驚くが、あそこまでピタッとくっつけるのは数多く積むためだけではなかったのだ。その結果、今やPCC内でのクルマのダメージ率は0.01%とほぼ皆無。稀にあるダメージもキズとかヘコミではなく、ヘアライン・スクラッチが見つかる程度だという。

 なお川崎汽船の資料によると、第一とよた丸など兼用船のときは、クルマを載せる床板が取り外し式だったため(復路に穀物を積むとき邪魔になるから)、外してデッキに積んで航行するとどうしても海水を浴び、サビを防ぎきれなかったという。その床板を再び組み付けてクルマを入れ、長い航海に出るとサビがクルマに移ってしまうが、第十とよた丸以降のPCCならそんな心配もない。

 その品質が高く評価されて世界を席巻していった国産車だが、それも自動車専用船での品質確保の努力があったからこそ、といっても過言ではないだろう。

 だが、こうして国産車の輸出、ひいては日本経済の発展に大きく貢献した自動車専用船だが、80年代後半から90年代にかけては苦しい時代もあった。貿易摩擦の問題によって北米の現地生産が進み、北米向けの輸出台数が減ってしまったからだ。


「その時代は転用しにくいPCCゆえに廃船にしたこともあります」


 そういった時代の波を受けながらもPCCの需要は世界的に増え、現在は世界で年間約1700万台ものクルマが海上を行き来しているという。

川崎汽船も最新の「ADRIATIC HIGHWAY」(自動車6200台積載可能)を含め、現時点で約100隻のPCCを就航させ、多くのクルマを運んでいる。

あのそびえ立つような自動車専用船の姿は、誰が見ても強く印象に残る。それは日本の自動車産業を縁の下で支えてきた姿でもあるのだ。



掲載:ノスタルジックヒーロー 2008年10月号 Vol.129(記事中の内容はすべて掲載当時のものです)

text:Osamu Tabata/田畑 修

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