ラジオで知った日産との合併。6気筒の専用設計で残せたプリンスのモノづくりの文化|SPECIAL INTERVIEW - スカイライン開発主管が語る、プリンスと日産 - 伊藤修令  Vol.3

3代目 日産プリンススカイライン

       
【SPECIAL INTERVIEW - スカイライン開発主管が語る、プリンスと日産 - 伊藤修令  Vol.3】

【2】から続く

 ところが、開発がスタートし、レイアウトが決まりつつあった1965年5月、突然、プリンス自動車と業界第2位の日産自動車が合併する、という情報が舞い込んできたのである。
「合併の話はラジオで知りました。櫻井さんも田中次郎さんも合併の話は知らなかったようです。不思議と悲壮感はありませんでした。が、今やっているスカイラインはどうなってしまうのだろうな、と思いました。

 上層部はスカイラインとグロリアの処遇を検討していたようですが、設計変更の話が来たのは1966年の7月です。櫻井さんが紫色の風呂敷を持って日産から帰ってきました。そのなかに次期ブルーバード(P510)の図面が入っていたのです。ブルーバードも同じ形式の4輪独立懸架を採用する予定でした。コストダウンと生産性向上のため、共用化を検討しろ、と櫻井さんに言われました。ムッとしたのが顔に出たのを櫻井さんに悟られましたね」
 伊藤さんは、共用化のために変更する部品の図面の引き直しに没頭する。作業が終了するのは夏休み直前だった。が、共用化したのは、4気筒モデルのフロントサスペンションのスプリングシートやストラットのシャフトなど、あまり多くなかった。
「4気筒モデルはフロントサスペンションの部品を中心に、共用化のために図面を引き直しています。が、2000GTはGT‐Rを追加する予定だったので、専用設計としています。シャフトを太くしているし、スピンドルも専用設計です。ただし、搭載を予定していたG7型エンジンは日産のL20型直列6気筒SOHCに変更しました。

 この判断がよかったのでしょうね。グロリアはセドリックと同じクルマになってしまいました。が、スカイラインはプリンスらしい作品に仕上がっているのです。プリンスのクルマづくり、モノづくりの文化は残せました。生き延びることができたのだから、今になってみるとよかったと思いますよ」
 と、伊藤さんは60周年を迎えられたスカイラインを温かく祝福する。


>>【画像6枚】スカイラインの生みの親、故・櫻井眞一郎さんのもとでシャシー設計を中心に手腕を奮われた、伊藤修令さんとスカイラインの初期など




伊藤修令(いとう ながのり)
1959年にプリンス自動車工業の前身、富士精密工業に入社。以後、スカイラインの生みの親、故・櫻井眞一郎さんのもとでシャシー設計を中心に手腕を奮う。日産との合併後はマーチやローレル、レパードなども手がける。R32開発後はオーテックジャパン常務理事やニッサンモータースポーツインターナショナルのテクニカルアドバイザーなどを歴任。


初出:ノスタルジックヒーロー 2017年6月号 Vol.181
(記事中の内容は掲載当時のものを主とし、一部加筆したものです)

SPECIAL INTERVIEW - スカイライン開発主管が語る、プリンスと日産 - 伊藤修令 (全3記事)

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【1】【2】から続く

photo:ISAO YATSUI/谷井 功

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