〜2016年当時600万円相当だったBRZ〜 マレーシアの自動車産業|ニッポン旧車の楽しみ方 マレーシア・スペシャル Vol.3

620系ダットサントラック。「このリアベッドに板を渡して、そこにフードを並べるんだ」と、このクルマの夜の活躍ぶりを紹介してくれたジョー・ループさんは移動型ストリートフード店を経営している。派手目な仕上げのピックアップだったが、クオリティーは高かった。

       
海外でニッボン旧車がどのように乗られているか、またオーナーたちはどのような人たちなのか……。そんな興味を毎号掘り下げていく企画で続いている連載。
今号ではアメリカを離れて、東南アジアの国「マレーシア」で取材を敢行した。現地は日本と同じ左側通行で、右ハンドルのクルマが基本。日本車輸入天国かと思いきや、マレーシア独自の自動車産業が発展していたのだった。

【ニッポン旧車の楽しみ方 2016年 マレーシア・スペシャル Vol.3】

【2】から続く

 マレーシアの政治を担うのはもちろん先住民であったマレー系だ。70年代は政治混乱(民族問題)の中、第1次産業から第2次産業への転換が国策とされた。80年代に入って政治が安定すると工業基盤も整い、満を持して自動車製造を政府が主導。1983年の国産車計画の開始に伴って国営企業「プロトン」(マレー語で「国民自動車会社」という意味)を設立した。プロトン社の技術育成のためにパートナーとして選ばれたのが、すでに韓国相手に似た経験を持っていた三菱自動車工業だった。

 三菱の乗用車のノックダウン生産から始めて部品を段階的に国産化していく方法で、プロトンは完全国産化を目指した。部品メーカー育成のためには日本の部品メーカーが三菱を飛び越して直接の技術指導にまで及んだと言われる。特殊だったのは、その部品メーカーもマレー系企業ばかりだったことだ。プロトン社自体も幹部のほとんどがマレー系で占められている。プロトンの成功によって中国系との経済格差は縮まったとされるが、マレー系独占のために不公平感は高まった。

 外国車には極度に課税されたため、販売価格の安いプロトンは急速に普及した。こうして念願だった国産ブランド車の製造は達成されたものの、税制的保護を受けての成功であり製造技術の指針となる国際競争力という点では十分ではないとも指摘されている。実際にプロトン製セダンに乗ってみると、静粛性は日本製新型車のそれにはとても及ばない。地元の人からも「MTはまだ良いけど、ATはエンジンとトランスミッションが上手く連携していない」との声も聞かれた。


>>【画像25枚】若年層が主体だったマレーシアの日本旧車ファン。「日本のキューシャスタイルが好き」というオーナーが乗る1978年式トヨタ・クレシーダなど


 マレーシア政府は国産車政策を推し進め、1993年には2つ目の製造会社プロドゥア(「第2自動車会社」という意味)を創立。ここでも日本のダイハツと組んで小型車の製造を開始した。これら政府系企業2社は現在でも販売価格が有利なため、合わせて3分の2の国内シェアを持つ。ちなみに現行スバルBRZ(取材当時)を例に取ってみると、関税のために日本国内の倍ほどの600万円相当の価格で販売されているそうだ。




ホンダ大好き、クエイ・エルエスさん。この1979年式シビックは、オリジナルの1238cc 、EB型エンジンを積んでいる。「オリジナルのバンパーは何とか手に入れたんだけど、テールランプのレンズがなかなか見つからない」とのこと。「日本の人たちが日本のクルマの歴史を大切にしている姿をみて、自分もコレクションを始めたいと思った」というクエイさんは、他にホンダ・アクティなども所有しているそうだ。





美しく仕上げられたTE20系トヨタ・カローラのオーナーはヒューゴさん。エンジンは「もっとパワーが欲しかったから」と4A-GE型に換装済み。グローブボックスに残されたサインは「スターロードの井上さんのものです」と、遠慮気味の小声で誇らしげに話してくれた。


【4】に続く

初出:ノスタルジックヒーロー 2016年 10月号 Vol.177(記事中の内容は掲載当時のものを主とし、一部加筆したものです)

ニッポン旧車の楽しみ方 マレーシア・スペシャル(全4記事)

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【1】【2】から続く

text & photo:HISASHI MASUI/増井久志

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