マツダ787B、故郷ル・マンに帰る 1

フランスでも屈指の宗教建造物として名高いサンジュリアン大聖堂を背にして。

早いもので、マツダがル・マン24時間で優勝してからもう20年が経つ。

 当時はまだ、バブル経済の余波が残る時代で、787Bによる日本車初のル・マン制覇は、お祭り騒ぎになっていた覚えがある。

 その787Bが2011年7月、優勝20周年を記念して、かつて栄光に浴した地、ル・マンのサルテ・サーキットで、再び4ローターサウンドをとどろかせることになった。まさに栄光のル・マン。人々に刻み込まれた記憶は不滅のものだった。

歴史的、歓喜の勝利から20年
ル・マンでのマツダ787Bアニバーサリーラン

マツダ787Bの走行
決勝レース前のデモランはJ.ハーバートが担当。全開時の吹き抜ける排気音が懐かしかった。



 チャージカラーに塗られたマツダ787Bがル・マンに帰ってきた。1991年の優勝から20周年を記念して、マツダとACOの共同企画によるアニバーサリーランが実現したのだ。

 しかもこのイベントはなかなかぜいたくなスケジュールで、決勝日のスタート前セレモニーとして本コース上を周回するだけでなく、金曜日にル・マン市内で行われるドライバーパレードの幕開けとして、市街地を自走するメニューも盛り込まれていたのだ。

 この企画、当時マツダのドライバーも務めていたベルギー人モータージャーナリストのP・デュドネが、マツダ優勝の20周年を記念して本を執筆する、というところから始まっていた。これを聞いた当時のマツダスピード広報担当が、ならば787Bを動かすことはできないものか、と奔走したことで実現に結びついたものだった。

 それだけに顔ぶれは豪華。土曜日のサーキットランは優勝ドライバーのJ・ハーバートが担当。金曜日のパレードランはD・ケネディと寺田陽次郎が受け持ち、ジャコバン広場でのインタビューにはP・デュドネが受け答えをするという役者の揃え方だった。また当時広島で、ロータリーエンジンの開発を手掛けていたエンジニアの方々も集め、さながら20年ぶりの同窓会という様相を呈していた。



マツダ787Bのピットにて

デモランを終えピットロードに戻ってきた787B。あっという間に囲まれてしまう。いまも787Bの功績は不滅でその注目度は高い。ドライバー側のドア付近にいる人物は当時787Bを走らせていたオレカのチーム代表ド・ショーナック。いまも健在、ル・マンには欠かせない人物だ。

表彰台のジョニー・ハーバート
両手に花。1991年には立てなかったポディウム上で喜色満面のハーバート。


 ただ、唯一心残りだったのは、シグマMC73(1973年)の時代から、ロータリーエンジンによるル・マン・プロジェクトに尽力してきた大橋孝至氏が2年前に逝去され、この場に居合わせることができなかったことだ。先見の明がある方で、しばしハッと虚を突かれるような鋭い指摘を受けたことも幾度かあった。787Bが、1991年に優勝できたのも、この人の存在があったからにほかならない。

 それだけに、787Bを見ていると「継続は力なり」の言葉が実感を伴って響いてくる。ロータリーによるル・マン・プロジェクトは、決して恵まれたものではなく、予算を集め、態勢を整え、エンジン規定の壁に阻まれながらも、それでもコツコツと堅実に実績を積み重ねた末の優勝劇だった。

 長年の苦労が報われた、と痛切に感じたマツダ関係者も多かったはずだが、このことを詰めかけた観客がよく知っていたのには驚かされた。

「おめでとう、長かったね」と観客席から声を掛けられていたからだ。


ル・マン24時間レースの記念碑
ル・マン市内のプロムナードにあるル・マン24時間レースの記念碑


路面に埋め込まれた歴代優勝ドライバーの手形。787Bで優勝したJ.ハーバート/V.バイドラー/B.ガショーもこのとおり。

ル・マン勝利当時のマツダクルー
当時のマツダクルー。左端がD.ケネディ、中央がハーバート、右端がP.デュドネ。





掲載:ノスタルジックヒーロー 2011年10月号 Vol.147(記事中の内容はすべて掲載当時のものです)

text:Akihiko Ouchi/大内明彦 photo:AkihikoOuchi/大内明彦、Sumiyo Ouchi/大内すみ代、MAZDA CO.,LTD/マツダ

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