日野コンテッサ。そして三船敏郎をチーム監督に起用し日野「サムライ」で日本GPへ |チャレンジし続ける「サムライ」魂  Vol.2|ピート・ブロック インタビュー

ピート・ブロックがデザインした日野サムライ。エンジンは、コンテッサ1300用の1.3L直列4気筒。鋼管フレームに、ウイッシュボーンサスペンションを採用。F1でさえ、空力を論じることが少なかった時代に、すでにエアロダイナミクスを考慮したボディデザインと大型可変リアウイングを備えていたことに驚かされる。1967年、第4回日本グランプリ出走を試みたものの、さまざまなトラブルにより、失格を宣告された。

       
【チャレンジし続ける「サムライ」魂/ピート・ブロック インタビュー  Vol.2】

日野。そして「サムライ」

 一気に、日本車でレースに参戦した当時の経緯、思いを語ってくれたピート・ブロック。一般的にはダットサンのイメージが強いが、日野に対する熱い思いは、今なお、彼の中で大きなウエイトを占めているようだ。

 1966年当時、欧米のレース界での、日本車の評価は低かったはずだが、そんな時代になぜ日本車でレースをやろうと思ったのか、その点については、「一言でいうと『チャレンジ』です。アルファロメオやトライアンフ、BMW、ポルシェなどの強豪がひしめくレース界では、まだまだ日本車の実力・評価は低かったのですが、だからこそ、そんな日本車で勝利を収めたいという思いが強くありました」と語ってくれた。

 「私が初めて日本車でレースに参加したのは、わずか998ccの小さく醜い日野ルノーでした。実は、60年代の米国では、セダン、ツーリングカーのレースはなく、スポーツカーのみでした。でもカリフォルニアには、あまりお金がなくてもレースをしたいという人が多くいました。そこでミニクーパーやロータスコルティナ、サーブなどのセダンメーカーを集めて、Good Guys Sedan Racersというクラブを作り、カリフォルニアのローカルクラブであったカリフォルニアスポーツカークラブ(CSCC)に掛け合ってセダン(ツーリングカー)レースの開催を働きかけました。

 全米を統括するスポーツカークラブアメリカ(SCCA)は、本来東海岸出身のお金持ちが設立したものであり、彼らはレースはオリンピックと同じように宣伝なしで行うべきと考えていました。しかしレースにはお金がかかるため、クルマのボディにスポンサー広告を貼るしかなく、東海岸の団体はそれを嫌がっていたのです。ですから、我々は、アメリカで初めてプロフェッショナルなレースをはじめたことになります。

 われわれが有名になったのは、1966年の『タイムズミラーGP』からです。タイムズミラーGPは、ロサンゼルスタイムス社主催による米国最大のレースイベントで、世界最大規模のプロフェッショナルレースでした。会場となったカリフォルニアのリバーサイドレースウェイには、8万〜10万人の観客が押しかけ、ヨーロッパから、スターリング・モス、イネス・アイルランド、グラハム・ヒル、ジョン・サーティースなど、トップドライバーが、この世界最大のレースにやって来ました。

 そして、そんなレースの前座レースとして、CSCCはセダン、ツーリングカーレースを開催しました。8万人の観客の前で行われたそのレースに、私はちょうど新しい日野コンテッサ1300を2台手に入れたところで、最高にホットなマシンに仕上げました。当時はまだレギュレーションが明確でなかったので、1.3Lのエンジンを1.8Lにすることもできたのです。

 このレースでは私が勝利を収め、そこで日野が大々的に紹介されました。8万人の大観衆の前で、コンテッサという誰も聞いたことのないクルマが、ミニやロータスなどの外国勢を破ったのですから、そのかわいらしいクルマとBREには大きな注目が集まりました。多分、この一つのレースは、アメリカ人の日本車に対する見方を変えるきっかけになったと思います」

 66年10月リバーサイドレースウェイでの、この勝利が、日野、そして日本車にとっても重要な出来事であったことに疑いの余地はない。さらにこの時期、日野とBREは、『サムライ』と名付けられたスポーツカーを製作。チーム監督に三船敏郎を起用し、第4回日本グランプリへの参戦も果たしているのだ。




Vol.3、Vol.4に続く

ピート・ブロックがデザインした日野サムライなど【写真5枚】



ラスベガスのBREショップには、ダットサン系のモデルカーと並び、日野「サムライ」も傍らに置かれている。
そのモデルカーを手にしながら、日野、そして「サムライ」について熱い思いを語ってくれたピート・ブロック。


 「日野のエンジニアは、本当にすばらしく、あのままの関係を続ければポルシェのようなクルマができたはずだ。特に、1967年、第4回日本グランプリでの勝利を目指して製作をした日野サムライは、とても革新的ですばらしいクルマでした。当時、大型のリアウイングを装備するという発想はありませんでしたが、私はエアロダイナミクスが重要だと考えていましたので、あのような形の可変式ウイングを考えたのです。87年、フェラーリF40が発表されたとき、あの大きなリアウイングが話題となりましたが、私は、20年前も前に同じ発想で、クルマを設計していたのです!  日野サムライは、今でも、私が最も好きなクルマです」

 残念ながら、1967年の第4回日本グランプリでは、最低地上高がレギュレーションを満たしていないという理由で失格となり、本戦を走ることなく、レースウイークを終えたサムライは、翌年、日野のレース活動休止にともない、実力を示す場すら与えられず、その役割を終えることとなる。

初出:ノスタルジックヒーロー 2014年2月号 Vol.161(記事中の内容は掲載当時のものを主とし、一部加筆したものです)

チャレンジし続ける「サムライ」魂/ピート・ブロック インタビュー(全4記事)

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text : NOSTALGIC HERO / 編集部 photo : AKIO HIRANO / 平野 陽

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