F1日本グランプリの開催で ホンダとともにブレイク! ホンダが創った鈴鹿サーキットの歴史とは|ホンダと鈴鹿が共に歩んだ足跡 Vol.2

エントラントの主力がプライベートチームになる時代を迎えると鈴鹿サーキットのレースはフォーミュラ色を強めていくことになる。富士と比べた場合、高速かつテクニカルな鈴鹿サーキットの特徴がフォーミュラレースの性格とよくマッチした。写真はFJ1300レースのスタートシーン。

       
1963年、1964年と2年連続で開催された日本グランプリは、165年の大会が中止となり、翌1966年は富士スピードウェイで開催されることになった。実際、鈴鹿サーキットの営業実績に目をやると、本格始動するのは1965年になってからのことで、4輪車レースに関する1963年、1964年の2シーズンは、目立ったレースといえば日本グランプリぐらいしかなかったのである。

 しかし、この間ホンダは、驚くべきことにF1への参戦を果たしていた。もっとも当時のF1は、小さなレーシングコンストラクターがドライバーの世界一を決めるために行っていたイベントで、年間7〜8レースで組まれる小規模なものだった。

 また、自動車メーカーとして参戦するなら、生産者に世界タイトルのかけられたスポーツカーによるマニファクチャラーズ選手権が用意され、カテゴリーの違いを明確にすることで、エントラントを振り分けるシステムが出来上がっていた。

 ホンダがF1を選んだのは、シンプルに性能に絞り込んだフォーミュラのほうが当時の企業事情とマッチし、2輪車で培った技術の応用がより効果的に発揮できると判断したためだ。実際、1.5L時代のRA270〜272は、小排気量のエンジンを12気筒化し、パワートレーン系を横置きにするメカニズムを採っていた。

 バイクメーカーでなくては思い付かない手法(逆に言えば、バイクメーカーだからこの手法になった)で、参戦2シーズン目となる1965年最終戦のメキシコGPで初優勝を勝ち取ってしまうあたりは、さすがホンダ、としか言いようのない急成長ぶりだった。

 この頃のホンダはオール内製でF1に臨んでいたが、自前の鈴鹿サーキットを持つことで、どれほどF1プロジェクトの進展にプラスとなっていたかは、改めて振り返る必要もないほどだ。

 鈴鹿サーキットの存在は、ホンダのF1活動(2輪の世界グランプリも同様)に大きく貢献したが、サーキット業務も鈴鹿300km(1965年)、鈴鹿500km/1000km(1966年)と伝統のレースが相次いで産声を上げ、徐々に軌道に乗り始めたころだった。

 また、1970年代に入り排ガス対策のため自動車メーカーが撤退すると、「ハコもの」が中心となっていた富士スピードウェイに対し、日本独自の軽フォーミュラFJ360を手始めに、F2000/F2、FJ1300やFPといった一連のフォーミュラレースを積極的に開催し、「フォーミュラの鈴鹿」というイメージを強めていた。そしてそのピークとなるのが1987年から始めたF1鈴鹿GPだ。すでに1983年からエンジンサプライヤーとしてF1活動を再開していたホンダは、1986年に供給先のウイリアムズがコンストラクター、同じく1987年にはドライバー(ネルソン・ピケ)とコンストラクターの両タイトルを獲得。加えてF2で活躍していた中嶋悟をF1に送り出し、日本のF1ブームに火を付けていた。

 さらに、アラン・プロスト、アイルトン・セナによるマクラーレン・ホンダの時代を迎え、鈴鹿サーキットが果たした役割は、数字に換算できない非常に大きな影響力を発揮していた。

 こうして鈴鹿サーキット50年の歩みを振り返ると、単独のサーキット事業として成功を収めたことは言うまでもないが、2輪の世界GP(現モトGP)も含めたホンダ・モーターレーシング・プロジェクトの推進基盤として、大きな力を発揮してきたことも見逃せないポイントとなっている。

 果たして次の50年に対して鈴鹿サーキットはどんな影響力を発揮することになるのか、とても興味深い。


1987年から始まった鈴鹿でのF1日本GP。それまでモータースポーツには無関心だった層も引き入れてしまう大きな影響力を発揮。とくにホンダの全盛期、中嶋悟が日本人初レギュラードライバーとして全戦に参加したという要素が大きく、日本のモータースポーツがピークを迎えるきっかけとなっていた。


トールマン、ウイリアムズ、ロータスに次ぐ第4のエンジン供給先としてホンダと手を結んだのが当時最強といわれたマクラーレン。TAGマクラーレンとしてすでに世界タイトルを獲得していたが、ホンダエンジンを得て戦力はさらに向上。


アラン・プロストがドライビングを受け持つことでつけ入る隙のないチームが完成していた。


1988年には天才アイルトン・セナがマクラーレンに移籍。プロストとのダブルエース体制は完璧なまでの強さを発揮し全16戦中15勝(セナ8/プロスト7)を記録。しかし図抜けた才能が2人集まったことでチーム内に亀裂が生じ始めていた。いま振り返るとそれも懐かしいシーンではある。

掲載:ノスタルジックヒーロー 2012年12月号 Vol.154(記事中の内容はすべて掲載当時のものです)

全ての画像を見る

ホンダと鈴鹿が共に歩んだ足跡記事一覧(全2記事)

text:Akihiko Ouchi/大内明彦 photo:Akihiko Ouchi/大内明彦

RECOMMENDED

RELATED

RANKING