78年にスーパーツーリングのチャンピオンに輝いた柳田は、79年にシビエのスポンサードを受け、スーパーシルエットレースに出場した。
「日産が表立ってレースをできないから、追浜のファクトリーで開発したバイオレットターボを借り受け、レースに出ていたんだよ。まだ、インタークーラーの付いていないターボで、ターボラグもハンパじゃなかったね。ヘアピンの入口でアクセルを開くと、ヘアピンの先でドッカーンとパワーが出てくるんだ。難しかったね」と、当時を思い出しながら柳田は苦笑い。
80年にバイオレットでシリーズチャンピオンに輝いた柳田は、マシンをガゼールターボにスイッチした。これに続いて910ブルーバードターボのステアリングも握っている。
いっぽう、スーパーシルエットが始まる1年前の78年から長谷見は「トミー」のスポンサードを受け、サーキットを走っている。現役中も、引退して監督になってからも「トミカ」のステッカーをマシンに張り続けた。それほど強い信頼関係で両者は結ばれていた。
長谷見は80年に日本のモータースポーツ史上、初の4冠王に輝いている。富士GC、全日本F2、鈴鹿F2、フォーミュラパシフィックのチャンピオンだ。この長谷見がスーパーシルエットに参戦するのは82年である。マシンは、今もファンに語り継がれているR30スカイラインRSターボだ。
「スカイラインはずっとレースをやめていたから、プリンスの人たちはレースをやりたくてうずうずしていたんだ。スカイラインを走らせるために、販売ディーラーの人たち(PDC)が2万人からカンパを集め、マシンを造る資金を捻出したんです。ボクもレースをやりたかったから、追浜(日産)にエンジンを貸してくれ、と掛け合いました。F2のスポンサーをしてくれていたトミーもマシンの製作に前向きでした。
マシンを造る準備を進めていたし、資金のめどもたったのですが、日産がいい顔しないんです。プリンスだけでやるのは不公平だ、と待ったがかかってしまいました。そこでメカニズムは同じで、ボディを910ブルーバードとシルビアに替えたマシンも一緒に造ることにしたんです。
他の2台はレース専用のメンテナンス会社に頼んで整備していました。でもボクはハセミモータースポーツ、自分のところでメンテナンスしていたんです。だからいろいろと新しいことにトライできたし、調子もよかった」と、長谷見は日産シルエット軍団が誕生した経緯を語ってくれた。この話を聞いた柳田は、なぜマシンがブルーバードに変わったのかを知ったようだ。
このときに、プリンスの関係者がボディカラーを提示してきたが、長谷見は黒い色があまり好きでなかったので、不満の声を漏らしたという。だが、市販車のスカイラインRSターボが赤黒の2トーンカラーで登場し、プリンスの関係者がこのカラーリングにこだわった理由を「そうだったのか」と悟った。
柳田春人も、カラーリングには強い思い入れがあるようだ。
「スーパーシルエットのときはシビエやオートバックス、コカ・コーラなどがメインスポンサーだったんだ。スポンサーが変わるたびにカラーリングを変えるんだけど、ブルーバードは最初は赤いコカ・コーラカラーだった。これが白を基調としたコカ・コーラ・ライトのカラーになったときはステッカー屋さんが張るのに苦労していました」
掲載:ノスタルジックヒーロー 2012年6月号 Vol.151(記事中の内容はすべて掲載当時のものです)
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