【10】自社製V12間に合わず! R381はシボレーV8で登場。その排気量は?|最強のレース組織 日産ワークスの歩み Vol.10

グループ7規定の発表から翌年の日本グランプリまで8カ月。常識的には、この期間で新たな車両を開発することは不可能に近かったが、日産陣営はこれより早い段階で、R380の後継となる新型プロトの検討を進めていた。

 これがR381が、日産製5LV12を積むグループ6カーとして企画されていたが、この規定変更を受け、グループ7カーへの改変が決定した。とはいうものの、グループ7化の作業は思いのほか遅く、1968年3月下旬の富士スピードウェイテストの段階では、まだグループ6カーの状態だった。

 ちなみにこのテスト、雨模様のコンディション下で行われていたが、ストレートの水たまりに足をとられた北野がガードレールにクラッシュし、九死に一生を得るアクシデントが起きていた。修復も兼ねてという言い方は少々荒っぽいが、この車両からグループ7カーへの改変が始まった。

 そのR381、自社製の5LV12エンジンの開発が間に合わず、アメリカンV8のチューナーとして知られるムーン社の5.5LシボレーV8エンジンを積んでいた。5.5Lといえば、日本車の基準から見ればかなりの大排気量だが、排気量無制限のグループ7カーとしてはどうなのだろうか?

 導入時期と符合する67年のCAN‐AMシリーズに当てはめてみると、チャンピオンカーのマクラーレンM6Aが5.8L(シボレー、520ps)だったから、本場のCAN‐AMカーとして見た場合にも、十分な排気量を持っていたことになる。ただし、これが68年になると一気に事情は変わり、チャンピオンカーとなるマクラーレンM8Aは7Lエンジンを積むまでになっていた。

 しかしアメリカンV8は、排気量でなくそのチューニング特性で馬脚を現すことになった。最終コーナーからストレート、そしてバンクへと続く富士スピードウェイのコースレイアウトは、アクセルを全開にして走る時間が異常に長く、しかもバンク内での垂直Gという問題もあり、加減速を繰り返すCAN‐AM用のチューニングでは対応できなかったのである。

 R381のエンジンは、走っては壊れるを繰り返し、そのたびに荻窪チームが対策を講じた結果、荻窪チューンと呼べる状態にまで変わっていたが、それでもなお信頼性は低かった。

 その代わりと言っては語弊はあるが、櫻井眞一郎の考案したリアサスペンションの上下動に連動する左右2分割式のリアスポイラーは、接地荷重が抜けるイン側リアタイヤに空力荷重をかけ、大パワー車のコーナリング性能を引き上げるユニークなシステムとして機能していた。

 開発初期は直進性が悪く、フロントが浮き気味になる症状を示していたが、全体的にはステアリングが重く体力的には重労働を強いられる車両だったという。


クラッチをいたわるスタートのためトヨタ7勢に先行を許したR382勢だったが、持ち前のスピードにものを言わせ、序盤戦の早い段階で主導権を握ることに成功。21号車は優勝車となる黒沢元治車、後続の23号車は高橋国光車だが、高橋はこのレースでもまたトラブルピットのため優勝を逃していた。高橋国光につけられた「無冠の帝王」の呼び名は、大一番で不運の連続に見舞われたことに起因するものでもあった。



戦前の予想ではR382のライバルとなるはずだったトヨタ7はパフォーマンス不足、ポルシェ917はセットアップ不足を露呈させて後退。トヨタ7勢では、唯一1人でドライブした川合稔が気を吐いていたが、それでも黒沢、北野のR382にはラップ遅れにされていた。



1969年11月、日本CAN-AM参戦時のマクラーレン・トヨタ鮒子田寛車。トヨタはシャシー性能の比較研究車両としてマクラーレンM12を購入。トヨタ製5LV8エンジンと組み合わせてその実力を探っていたが、実際には明らかな性能差が生じていた。


掲載:ノスタルジックヒーロー 2011年12月号 Vol.148(記事中の内容はすべて掲載当時のものです)

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text&photo:Akihiko Ouchi/大内明彦

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