1985年にグループA規定で始まったJTC(全日本ツーリングカー選手権、世界的には82年のETC、ヨーロッパ・ツーリングカー・チャンピオンシップが起点)だが、このグループA規定には落とし穴があった。
それまでのグループ1 2/4規定によるツーリングカーレースは、過度の改造競争に陥ったことで、エントラント(メーカー)が離れる好ましくない状況となっていた。
そこで改造範囲を大きく制限し、市販車の基本性能で争う新たなレース規定とすれば、多くの自動車メーカーに対して広く門戸を構えることになり、ツーリングカーレースの再活況化が望めるのではないか、という思惑から考え出された新規格がグループAだった。
核心は一種の性能調整で、改造を制限することで性能差の発生を防ぎ、参戦コストを下げることで、今まで改造競争に追従できなかったメーカーに、ツーリングカーレース参戦への敷居を下げる狙いが込められていた。
しかし、ボディ外観から車両骨格、基本メカニズムまで、言い換えれば「速く走るため」の改造が一切許されなかったグループA規定は、ベース車両の性格が最低限レースに適していなかった場合を考慮して、使用パーツの追加公認制度が用意されていた。レース走行に必要な安全装備の装着や信頼性の確保、走行にかかわるメカニズムの動作保証などを裏付けとするもので、グループAレースに参戦したいが、改造を施さないと競技車両として成立しないケースを想定する救済策だった。
このことは初期のグループA車両を振り返れば一目瞭然で、ジャガーXJS、ローバーヴィテス3500、ホールデン・コモドール、そしてボルボ240Tといった想定外(?)の車両が活躍できたのは、すべて追加公認制度のおかげと言ってもよかった。
しかし、FIAが定める規定文章の読み方、解釈の仕方は、いつの時代もエントラントに課せられた特典のようなもので、ほかより有利に戦うためには、いかにして明らかに規定で禁止されていない部分を掘り起こせるかが、優勢確保への課題となっていた。
こうした意味では、85年に始まるJTC戦でいきなりBMW635が快走したり、国際交流戦の意味を含んだシーズン末のインターTECで、遠来のボルボが日本車勢を足元にも寄せ付けずに一蹴したりと、ベース車両の性能から推測するレースポテンシャルに落差があったのも当然といえる。
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>> すでに長谷見は自分のチームからJTC戦に参入。「ハコはあまり好きでない」というもう一人のエース星野をグループAに投入した日産勢。失地挽回に執念を燃やす日産の本気度がうかがえる1987年のインターTECだった。
>> 日産自動車として最初にグループAに取り組んだレースが1985年のインターTECだった。車両はDR30スカイラインRSターボ。長谷見を起用しての参戦だったが、ボルボ240Tという想定外の強さを持った相手に完敗。
>> 86年には㉓ニスモカー(和田孝夫/鈴木亜久里)、ニスモサポートカーのヂーゼル機器㉒(都平健二/越野照喜、他)が参戦。和田/亜久里のコンビは6戦中2勝を挙げてシリーズタイトルを獲得。まだ混沌とした時代だった。
【2】に続く>> 【画像13枚】目には目を、エボにはエボを! 本格反抗を開始したハコの伝説。グループAスカイラインGTS-R初出:ハチマルヒーロー vol.45 2018年 1月号
(記事中の内容は掲載当時のものを主とし、一部加筆したものです)
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