昭和33年3月3日に発表された! スバル360の 半世紀 半世紀前に このクルマができた意義とは何か? 1

昭和33(1958)年3月3日。3のゾロ目の日に、スバル360は発表された。通商産業省が提唱した「国民車構想」を具現化したクルマとして、最初の国民車と評価されたこの小さな軽四輪自動車は、後の日本の、いや世界のモータリゼーションに多大なる影響を与えることになる。それから長い年月が経過した今、スバル360を振り返ってみたいと思う。



 半世紀という時を経て、今なお唯一無二の存在として皆に親しまれているスバル360。クルマ好きの人でもそうでない人でも、この丸っこい形と「スバル」という名前は、きっと知っているはずだ。
 当時、国が推し進めていた国民車構想(国民車育成要綱案)は、乗員大人2人+子供2人、最高時速100㎞/h、車両重量400㎏以下、販売価格25万円以下という指針で、自動車メーカー同士の競作によって国民車を生み出す、というものだった。


63年前期型まで使われたスライドタイプのドアウインドー。

これに刺激を受けた富士重工業の技術陣は、独自に「大人4人がゆったりと座れること」という、さらに高いハードルを課して、新しい軽四輪自動車の開発を始めたのだった。


愛称「デメキン」と呼ばれるヘッドライト。こちらもオーナーが手を入れて光量をアップさせている。

 全長3m、全幅1.3mという車体寸法の中で、大人4人が乗れる空間を確保する……この難題にチャレンジする精神こそ、後にスバルの技術思想の根底を成す、大切な事柄となるのである。


リアフェンダーの赤いランプは、本来ブレーキランプとウインカーとして機能する。しかし現在の交通事情では危険なので、ブレーキランプとテールランプになるよう、配線を変更。ウインカーは汎用品をリアウインドーの内側に別に取り付けてある。

つまり「使う人のことを徹底的に考えて、技術(製品)を考える」ということ。仮に国民車構想をそのまま真に受けて、大人2人+子供2人の乗員空間でクルマを世に送り出したとしたら、製品としては形になっただろう。


もともとのテールランプは、ナンバー灯を兼ねた四角いランプのみ。

しかし使う人にとって、果たして満足のいく道具となっただろうか? 機能をとことん追究していくという作業は、それを造り出すメーカーの開発陣一人ひとりの心意気が、如実に出てしまうことでもあるのだ。

掲載:ノスタルジックヒーロー 2008年 08月号 vol.128(記事中の内容はすべて掲載当時のものです)

text:Nostalgic Hero/編集部 photo:Isao Yatsui/谷井 功

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