初代スカイライン、その誕生前後の時代|富士精密とプリンス スカイライン

1957年4月にデビューした、初代ALSIスカイライン。写真のグレードはデラックスで、廉価版のスタンダードとはボディサイドやウインドーまわりのモールディングなどに違いがある。

       
【富士精密とプリンス スカイライン】

富士精密工業という名前の会社は、すでに存在しない。しかし旧車好きにとっては、スカイラインを最初に生産したメーカーとして、折に触れてその名を耳にしているはずだ。ここでは、初代スカイライン誕生前後の時代を振り返ってみよう。

ルーツである富士精密とは

 日本は第二次世界大戦で敗戦し、多くの人は転業に追い込まれて運命を大きく変えた。航空機業界の多くは平和産業へと転身する。そのひとつが、戦時中に中島飛行機の隼や呑龍、キ‐74遠距離爆撃機などの生産を行っていた、機体専門メーカーの立川飛行機だ。

 その有志は1947年に「東京電気自動車」を設立している。立川飛行機の試作工場長だった外山保と長距離爆撃機の設計にかかわった田中次郎が中心となり、電気自動車の「たま号」を完成させ、発売した。その後、たまジュニア、たまセニアなどを開発するが、経営難に陥っている。このとき資金援助したのが、日本タイヤ(後のブリヂストン)の社長だった石橋正二郎だ。

 49年11月、新工場を建設したのを機に社名を「たま電気自動車」に変更した。エンジン設計にたけた中島飛行機系列の富士精密工業にエンジン設計を依頼して52年3月に誕生したのが、皇太子殿下の立太子礼を記念して「プリンス」と名付けたクルマである。これまでのトラックとライトバンに加え、「AISH」の型式を持つプリンスセダンを送り出した。この直後に、社名を「たま自動車」へと変更している。

 富士精密工業が設計したFG4A型直列4気筒OHVエンジンは、1484(イシバシ)ccの排気量だ。最高速度は110km/hである。当時の日本車としては群を抜いて高性能だった。このプリンスセダンは、スカイライン誕生まで改良しながら生産が続けられている。その最終型はⅥ型だ。

 1952年11月、社名を「プリンス自動車工業」に変更した。54年2月にはプリンス自動車販売を設立する。だが、4月に富士精密工業と合併して再び「富士精密工業」を名乗った。この時期に試作し、1956年の第3回全日本自動車ショウに参考出品して話題をまいたのが、VIPセダンのBNSJだ。

 1955年1月、トヨタと日産は相次いで乗用車を送り出した。観音開きのクラウンとダットサンセダンだ。この2車によってファミリーカーは身近な存在になった。技術力を売り物にする富士精密工業も黙ってはいなかった。プリンスセダンの後継モデルを開発していたのである。57年4月、満を持して市場に放ったのがスカイラインだ。

 ご存じのようにALSIを名乗った初代スカイラインは、進歩的な設計の上級ファミリーカーだった。独立懸架のダブルウイッシュボーンとド・ディオンアクスルの凝ったサスペンションを採用し、1.5Lの直列4気筒OHVエンジンもクラストップの実力を誇っている。日本で初めて2スピードワイパーや4灯式ヘッドランプを採用したのも、このスカイラインだ。ALSID‐2と呼ぶデュアルヘッドライトのスカイラインが登場した頃、月あたりの生産台数は2000台を超えている。

 富士精密工業は、1960年から自動車事業5カ年計画を打ち出した。飛行機屋を自認する優秀なエンジニアを揃え、世界基準の高性能なクルマ造りを心がけているが、販売台数はいま一歩にとどまっていたからだ。5年間でグロリアとスカイラインの生産台数を大幅に引き上げ、増益を図ることを目指した。増産は三鷹工場だけではできない。そこで新たな工場建設に乗り出している。これが村山工場だ。

 1961年は躍進の年になる。2月、富士精密工業は車名を「プリンス自動車工業」と変えた。5月には小型車の規格拡大に伴い、1862ccのGB4型4気筒エンジンを積むスカイライン1900を仲間に加えている。また、日本初のプレステージ・スペシャルティーカーも送り出した。粋なイタリアンデザインのスカイライン・スポーツだ。

2代目スカイライン以降の躍進

 スカイラインがスポーツセダンとしての道を歩み始めるのは、2代目のS50のときである。小型ファミリーカーにダウンサイジングを敢行し、軽量で高剛性のモノコックボディも採用した。1.5LのG1型直列4気筒OHVエンジンはクラス最強スペックだ。また、日本初の「封印」エンジンを採用するなど、メンテナンスフリーを打ち出している。当時としては画期的な試みで、設計陣の自信の表れだった。

 モータースポーツの必要性にも目覚め、積極的にレースに挑んだ。第2回日本グランプリを制するために送り込んだ限定モデルがスカイラインGTである。ポルシェの最新鋭マシン、904GTSと互角に渡り合い、今に続くスカイライン神話を生み出した。1965年には日本初のプロトタイプ・レーシングカー、R380も製作する。

 プリンス自動車は月産1万台態勢を確立したが、高性能と高品質にこだわった結果、利益率が落ち込み、経営は苦境に陥った。存続をかけて選んだのが日産自動車との合併だ。65年6月、吸収される形での合併が発表され、世間を驚かせた。翌66年8月に正式合併して、クルマの開発態勢などは大きく変わる。これ以降、プリンス自動車の開発陣は「オギクボ」、日産の設計陣は「ツルミ」と呼ばれるようになる。

 3代目のC10からは日産スカイラインを名乗り、メカニズムの共用化も図られるようになった。また、合併の産物として、日産が開発していたローレルにプリンス系のG18型エンジンを積み、村山工場で生産を行ったこともニュースのひとつに挙げられる。

 飛行機メーカーを母体とするプリンス自動車は、エンジニアリング優先の会社だった。これに対し日産は、営業サイドの影響力が大きく、サプライヤーを使うのもうまい。労組が強く、階級社会の意識が強いメーカーでもある。だからスカイラインは、他メーカーのライバルだけでなく身内である日産ブランドのブルーバードにも負けないように独自の個性を磨いた。スポーティー感覚を前面に押し出しながら新境地を切り開いていったのである。

 ハコスカと呼ばれた3代目スカイラインはヒット作となり、これに続く「ケンとメリー」のスカイラインは、コマーシャリズムの世界にも新風を吹き込んだ。排ガス規制が厳しくなった70年代後半からは、エンジン浄化に取り組み、これが一段落するとターボパワーで苦境を乗り切っている。

 80年代になるとプリンス自動車の解体が一気に進んだ。だが、新しいメカニズムを積極的に採用し、パフォーマンスの面でも優位に立ったスカイラインは、21世紀まで生き残るしぶとさと強さを見せたのである。



初期型の特徴であるテールランプとバックランプが上下に分かれたリアまわりなど【写真4枚】




丸形2灯ヘッドライトも初期型ならではのもの。1960年2月に中期型(2型)になると同時に、丸形4灯ヘッドが採用された。






ALSIスカイライン初期型のサイドビュー。デラックスが直線2本のサイドモールなのに対して、スタンダードはフロントドアのところで折れ曲がる1本モールとなる。





初期型の特徴であるテールランプとバックランプが上下に分かれたリアまわり。




初出:ノスタルジックヒーロー 2015年 02月 Vol.167 (記事中の内容は掲載当時のものを主とし、一部加筆したものです)

富士精密とプリンス スカイライン

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text : HIDEAKI KATAOKA/片岡英明 photo : NISSAN MOTOR CO.,LTD./日産自動車

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